明治の元勲・山縣有朋の終の棲家「古稀庵」(小田原)を訪ねて|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

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明治の元勲・山縣有朋の終の棲家「古稀庵」(小田原)を訪ねて

東京の奥座敷・箱根湯本温泉にて静養中、明治の元勲・山縣有朋の終の棲家「古稀庵」(小田原)を訪ねる。  2017年2月19日

明治の元勲・山縣有朋の終の棲家「古稀庵」

明治の元勲・山縣有朋の終の棲家「古稀庵」

古稀庵」は、明治の元勲・山縣有朋(首相、枢密院議長、陸軍元帥)が、明治40年(1907)、70歳(古稀)のときに築造した終の棲家であり、有朋公所有の三名園のひとつとして東京目白「椿山荘」、京都「無隣庵」とともに、近代日本庭園の傑作と言われている。

日本古来の山水回遊式庭園とは違い、本邦初の自然主義的和風庭園として築造され、約4600 m2 の敷地に谷水を巡らせ、高低差14.9 m の洗頭瀑、聴潭泉などの滝組みにより約50種類の常緑樹や落葉樹の配置と相まって変化ある景観と力動感を表現している。庭内を流れる水は、個人水道で荻窪用水から山縣水源池での貯水を介して引き入れたもので、その総延長は1860mにも及ぶという。

この当時、明治20年(1887)の新橋・国府津間の鉄道開通によって、風光明媚で温暖な小田原は最大人気の別荘地となり、また明治34年(1901)に小田原城御用邸として整備されたこともあり、市内には初代・内閣総理大臣・伊藤博文公爵の滄浪閣、陸軍大将・大島義昌、海軍大将・瓜生外吉、政治家・榎本武揚子爵、電気王・松永安左エ門、ジャーナリスト・長谷川如是閑、三井財閥の総帥・益田孝男爵、大倉財閥の創設者・大倉喜八郎男爵、旧福岡藩主・黒田長成侯爵、宮内大臣・田中光顕伯爵らや尾崎一雄、谷崎潤一郎、三好達治など文学者の別邸、邸宅が築造された。

明治の元勲・山縣有朋の終の棲家「古稀庵」

明治の元勲・山縣有朋の終の棲家「古稀庵」

明治の元勲・山縣有朋の終の棲家「古稀庵」

古稀庵庭園へと続く小径
高低差14.9mの起伏
庭内を流れる水は荻窪用水より個人水道で取水
野趣溢れるスダジイの大木

明治の元勲・山縣有朋の終の棲家「古稀庵」

明治の元勲・山縣有朋の終の棲家「古稀庵」

明治の元勲・山縣有朋の終の棲家「古稀庵」

古稀庵の庭園: 高低差14.9mの起伏を活かした1400坪の庭園は、部分的には現存しているものの全体的には当時の様相を崩している。

聴潭泉:明治の元勲・山縣有朋の終の棲家「古稀庵」

聴潭泉:明治の元勲・山縣有朋の終の棲家「古稀庵」

聴潭泉:明治の元勲・山縣有朋の終の棲家「古稀庵」

聴潭泉: 解説板には「鬱蒼たる樹陰に水聲を聴きながら、其水の本體を視ざる處を聴潭泉と名づけし」とある。

明治の元勲・山縣有朋の終の棲家「古稀庵」

明治の元勲・山縣有朋の終の棲家「古稀庵」

庭石には、山縣が吟じた漢詩が刻まれている: 「豊臣秀吉公は小田原城を囲み石垣山に一夜城を築いた。この庭はその旧跡の東に位置し殊に感慨深きものがある」という内容

洗頭瀑:明治の元勲・山縣有朋の終の棲家「古稀庵」

洗頭瀑:明治の元勲・山縣有朋の終の棲家「古稀庵」

洗頭瀑: 解説板には、「自分は時々此処に長時間佇んで、飽くことなく滝を眺めることがある」と山縣公が語ったように、左右から滝添石が迫り、立体感に富んでいる。とある。

兜石:明治の元勲・山縣有朋の終の棲家「古稀庵」

兜石:明治の元勲・山縣有朋の終の棲家「古稀庵」

巨大な兜石: 解説板には、「兜石という大石を板橋村の人々が力を込めて我が庵の庭に引き入れ、庭の高みに据えてくれたもので、「儼然一庭の鎮護」として庭園の要め石となっている」と感謝の意を表している。

明治の元勲・山縣有朋の終の棲家「古稀庵」

明治の元勲・山縣有朋の終の棲家「古稀庵」

庭石には、「山海の風光明媚な小田原の地に草庵を結び、古稀庵と名付け住んでいること」や「小田原の自然をなぞらえた庭園の構成や形容」などを詠んだ有朋の歌が刻まれている: 
「小田原城南麓に草庵を結ひ 古稀庵と名つけすみけるに」 有朋 
「打いたす相模の海を池にして あふく箱根は庭の築山 谷水は庭をめくりて城山の 麓の松はまかきなりけり のとかにも賤の麦まく小田原の 畑のあぜ道梅の早咲」

古稀庵から竹林道を経て松永記念館・「老欅荘」へ

古稀庵から竹林道を経て松永記念館・「老欅荘」へ

「古稀庵」から竹林道を経て「老欅荘」&松永記念館へ
山縣有朋公は「古稀庵」とともに茶室をもつ「暁亭」を同じ小田原板橋に建設
1907年、明治の元勲・山縣有朋公は、古稀を迎え、「古稀庵」とともに茶室をもつ「暁亭」を同じ小田原板橋に建設。有朋公没後、邸宅は子息の友人・熊本利平氏に所有移転され、さらに相続の利平氏の次男・徳次郎氏は「古稀庵」を手放し、「暁亭」に居を移す。その後、熊本徳次郎氏は引越しのため、「暁亭」母屋は湯本ホテル暁庵として移築し、茶室部分のみ熊本邸に移す。そして現在、この茶室部分は茶室「暁亭」として吉池旅館に移築保存されている。電力王で茶人の耳庵・松永安左衛門氏は徳次郎氏の伯父にあたり生前この茶室を大変愛し、今の濡れ縁は耳庵が所蔵の千年を経た奈良古材(寺院廃材)で自ら大工に命じ、取り付けさせたものである。
▼ 有朋公の茶室 「暁亭」

山縣有朋・茶室「暁亭」

山縣有朋・茶室「暁亭」

山縣有朋・茶室「暁亭」

山縣有朋・茶室「暁亭」

山縣有朋・茶室「暁亭」

山縣有朋・茶室「暁亭」

山縣有朋・茶室「暁亭」

茶室「暁亭」は現在、箱根湯本・吉池旅館本館に移築保存されている。所有者・熊本徳次郎の伯父である電力王で茶人の耳庵・松永安左衛門もこの茶室を大変愛し、今の濡れ縁は耳庵が所蔵の千年を経た奈良古材(寺院廃材)で取り付けたもの。茶室の立地上のためか、あるいは意図的か、水屋を主室の右隣(北側)に設けたため、水道口や点前畳(道具畳)の位置が逆となり、やむを得ず「向切炉の逆勝手」となっている。(通常は順勝手、本勝手であり、それが可能ならば逆勝手は禁)

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