先祖の足跡を訪ねて −京極高久(尼子氏始祖)の尼子城跡の土塁と堀跡(滋賀・甲良)−|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

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先祖の足跡を訪ねて −佐々木京極高久(尼子氏始祖)の城跡(滋賀・甲良)−
大阪へ学会出張の帰途、奈良の学会へ参加の妻と合流して、出発前の時間を利用して、京極高氏道誉像(重文)所蔵の京極道誉菩提所・勝楽寺(滋賀・犬上郡甲良町)を訪ねた後、37度以上(京都は39度)の猛暑の中、残り1時間の冒険で京極高久(尼子氏始祖)の城跡(滋賀・犬上郡甲良町)&多賀大社(滋賀・犬上郡多賀町)を訪ねる。  2015年8月2日。

尼子城跡周辺地図

琵琶湖線・河瀬駅

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尼子城跡周辺地図

▼ 戦国大名・尼子氏(出雲)の発祥の地(滋賀・犬上郡甲良町)
戦国武将・尼子氏の発祥の地(滋賀・甲良町)
室町幕府成立の立役者であり、婆娑羅大名として天下にその名を馳せた京極家4代目京極高氏(佐々木佐渡守・判官入道・道誉)のあと、京極宗家は長男・秀綱およびその子秀詮・氏詮、次男・秀宗(近江の高橋家始祖)がいずれも高氏に先立って戦死していたため、三男・高秀(わが先祖)が継承した。5代目高秀には嫡男・高詮、次男・満秀(摂津の能勢家、多田家始祖)、三男・秀益(出雲の宍道家始祖)、四男・高久(近江の尼子家始祖)などの男子がおり、嫡男・高詮は、一旦は六角氏頼の猶子となって佐々木宗家の六角家の家督を継ぐが、六角氏頼に晩年亀寿丸という実子が誕生したため、京極家に戻り、京極宗家を継ぐ。さらにわが家系6代目高詮には嫡男・高光、次男・高数がおり、宗家は嫡男の高光、そして高光の嫡男・持高が継ぐが、いずれも39歳で早世したため、わが家系7代目の次男・高数が宗家を継ぐことになる。

以上のように、高氏の孫であり、高秀の四男である佐々木(京極)高久は、甲良荘尼子郷を与えられて独立し、有力庶子家となり、後の戦国大名尼子氏の始祖ともなる。すなわち、高久は正平2年(1347年)頃、本家京極家の勝楽寺の前衛城としてこの地に尼子城を築き、その後、地名の尼子を姓として尼子氏の始祖となる。嫡男・詮久は近江尼子氏、次男・持久は出雲国(島根県)にて雲州尼子氏の祖となるが、近江尼子氏は2代氏宗、3代宗光以後、南北朝の打ち続く戦乱で落城し、さらには織田信長の近江侵攻により一族家臣たちは四散したと考えられる。一方、雲州尼子氏は3代経久〜5代晴久の時代には山陰山陽道11ヶ国に覇を握る200万石の巨大な戦国大名となっており、近江尼子氏の一族家臣たちは雲州尼子氏を頼り、彼の地に拠を移し活躍した者も多い。こうして、当時としては広大であった尼子城(館)と共に、近江尼子氏は歴史の表舞台から姿を消すことになる。

昭和63年に滋賀県教育委員会が土塁と堀跡を発見し、これが室町時代の尼子氏の居城(館)跡の一部であることが発表された。平成8年、「むらづくり事業」で、甲良町の「水と緑の景観整備事業」の助成を受けて、落城後650余年間、竹藪の中で眠っていた尼子城(館)の土塁、堀跡の一部が保存・修復され、現在、約1300平方メートルの土塁公園となっている。

尼子館

尼子館

尼子館

尼子館

尼子館

尼子の集落には、東方の勝楽寺側の鈴鹿山脈から流れてくる犬上川の豊富な伏流水が中小の用水路を経て絶え間なく注がれている。
▼ 尼子城跡の土塁と堀跡(滋賀・犬上郡甲良町)
尼子城の堀跡、殿城池(別名 お園堀): 池の中央に小さな祠があるが、これは落城のとき入水した城主の姫君(八千姫)を祀るものである。またこのとき、若く美しい侍女お園も姫のあとを追って入水殉死したという。このことを領民が憐み、いつしかこの堀のことを「お園堀」と呼び、敬い親しみ護り続けている。(滋賀県教育委員会より)

城跡土塁&堀跡

城跡土塁&堀跡

城跡土塁&堀跡

土塁&堀跡
堀跡・殿城池(別名:お園堀)
土塁

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