先祖の足跡を訪ねて ―室町幕府成立の立役者&幕府重鎮として足利政権を主導した4代目・京極高氏佐渡守―|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

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先祖の足跡を訪ねて−室町幕府成立の立役者&足利政権を主導の4代目・京極高氏−
講演出張の帰途、4代目・京極高氏(佐々木道誉)の宝篋印塔および「道誉の桜」がある佐々木京極家累代の墓所:清瀧寺京極家墓所(滋賀・米原)を訪ねる。 2014年11月14日
▼ 京極家4代目・京極高氏佐渡守(佐々木道誉)

室町幕府成立の立役者・高氏

室町幕府成立の立役者・高氏

室町幕府成立の立役者・高氏

■ 京極高氏 (1296〜1373年)
若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津の守護大名。京極高氏・四郎左衛門尉・佐渡守。佐々木京極宗氏・三郎左衛門尉・佐渡守の次男。検非違使。大夫判官。政所執事、評定衆、引付頭人など。法名・道誉(自署では導誉)。母は京極宗綱の娘で、祖母は将軍家女房右衛門督(公家・阿野実遠娘、源頼朝弟のひ孫)。嘉元2年(1304)、京極氏当主となる。はじめ鎌倉幕府に従い北条高時に仕えたが、やがて後醍醐天皇に従って建武政権樹立に貢献。その後、足利尊氏に組みして後醍醐天皇と戦い、室町幕府成立に貢献。評定衆、引付頭人、政所執事などの室町幕府の要職を歴任し、幕政に関与した。

■ 建武政権成立の立役者
高氏は佐々木京極宗氏・三郎左衛門尉・佐渡守の次男として生まれ、執権・北条高時より偏諱(「高」の字)の授与を受けた。以後、京極家当主は名前に「高」の字をつける。高氏は、正和3年(1314年)に左衛門尉、元亨2年(1322年)には検非違使に任じられ、以後、検非違使の任を務めて京都に滞在。正中元年(1324年)3月には後醍醐天皇の石清水行幸に随行、橋渡しの行事を勤め、従五位下に叙爵されて大夫判官となる。一方で北条高時に相供衆として仕え、嘉暦元年(1326年)に高時が出家すると、実兄・貞氏(出家して善観)とともに自らも出家し、導誉と号す。

元弘元年(元徳3年・1331年)に後醍醐天皇が討幕運動を起こすが、高氏は幕府方として行動し、幕府が編成した鎮圧軍に従軍して主に京都において事後処理を担当する。翌年の元弘2年(1332年)、倒幕に失敗した後醍醐天皇は捕らえられ、高氏の道中警護のもと、供奉する阿野廉子、千種忠顕らとともに隠岐島へ配流されるが、河内国の楠木正成らが反幕府活動を続けて幕府に抵抗したため、北条氏は下野国の足利尊氏らを討伐に派遣する。

その後、正慶2年(1333年) 閏2月24日、後醍醐天皇は隠岐島を脱出するが、このとき高氏は、足利尊氏を後醍醐天皇に与するように説得する。さらに、後醍醐天皇につく覚悟を決めた尊氏と密約を交わし、連携行動を取り、光厳天皇から三種の神器を接収する。そして、ついに足利尊氏は幕府に対し反旗を翻し、六波羅探題を攻撃。一方で上野国の新田義貞もこれに呼応して鎌倉に突入。北条高時はじめ北条一族は自刃し、鎌倉幕府は滅亡する。こうして、後醍醐天皇は入京が叶い、建武政権が樹立されることになる。

■ 室町幕府成立の立役者
後醍醐天皇により建武政権が樹立され、高氏は雑訴決断所の奉行人となるが、政権樹立に功のあった武士層への恩賞がきちんと行なわれなかったため、その支持を集められず、各地で反乱が起こる。建武2年(1335年)には、北条高時の遺児・時行らが尊氏の弟・足利直義が守る鎌倉を攻めて占領する事件(中先代の乱)が起こるが、高氏は尊氏に従って時行の討伐に向かい、時行勢を駆逐して鎌倉を奪還することに成功する。

高氏の積極的な後押しによるものであるが、尊氏が後醍醐天皇の指示を待たずに独断で恩賞を分配し、建武政権に対する武家政権の樹立を画策したため、後醍醐天皇はついに、新田義貞に尊氏・直義の追討を命ずる。尊氏は箱根・竹下の戦いなどで新田軍を破り上洛に成功するが、北畠顕家らに敗れて兵庫から九州へ逃れる。しかし、高氏は近江に留まり、湊川の戦いで新田・楠木軍を撃破して再上洛を果たし、後醍醐天皇の廃帝を宣言して光明天皇を擁立、北朝を成立させる。こうして、足利尊氏は征夷大将軍に任命されて室町幕府を樹立するが、一方で敗れた後醍醐らは吉野へ逃れて南朝を成立させることになる。

高氏は一貫して尊氏を支持し、近江にあって南朝方の通商を阻み、比叡山に籠った南朝勢力を兵糧攻めにする。室町幕府の成立とともに、その立役者である高氏は幕府においては政所執事、評定衆、引付頭人などの役職を務め、公家との交渉に当る。建武3年 (1336年) に若狭守護に任じられ、その後も近江、出雲、飛騨、上総などの守護に就き、佐々木家の惣領・六角氏を大きく凌ぐ勢力を得る。

■ 足利政権を主導
足利幕府の政務は将軍・尊氏と足利家執事の高師直、将軍の弟・直義の二頭体制で行われていたが、正平5年(観応元・1350年)頃から師直と直義両者の関係が悪化し、「観応の擾乱」と呼ばれる内部抗争が発生する。高氏は将軍・尊氏側に属すが、南朝は高氏に対し尊氏・義詮父子と直義を一括して追討することを命じたため、高氏は尊氏に南朝と和睦する事を進言する。

こうして、尊氏は南朝に降り、正平一統が成立するが、南朝が尊氏に直義追討を命じたため直義は失脚、尊氏により毒殺される。しかし、正平7年(1352年)、南朝軍が京都を制圧、北朝上皇が南朝に奪われて正平一統は破綻する。京都を守備していた足利義詮は近江に逃走するが、3月、後光厳天皇を擁立して北朝を再建し、南朝軍を破って京都を奪還する。

このときの功績をめぐり高氏と山名師氏が対立、この抗争で、侍所頭人であった高氏の長男・秀綱が近江堅田で戦死した。そのため秀綱の遺族に出雲・伯耆・因幡の所領が給付されている。

その後、高氏は正平10年(文和5年・1355年)に上総守護、正平14年(延文4年・1359年)飛騨守護、正平15年(延文5年・1360年)摂津守護ならびに清和源氏菩提所多田院の管理権を獲得している。さらに、近江守護・六角氏頼に次男・秀宗の娘を嫁がせ、佐々木大惣領職として六角氏頼を後見し、近江の実権も得ている。

正平13年(延文3年・1358年)、尊氏が死去して子の2代将軍・義詮の時代になると、高氏は政所執事などを務め、幕府内における守護大名の抗争を調停、一方で幕府執事(のちの管領職)の細川清氏や斯波高経、斯波義将親子の失脚など積極的に幕政に関与している。また、南朝とのパイプを持って交渉も行い、正平22年(貞治6年・1367年)、幕府が関東統治のために鎌倉に設置した鎌倉公方・足利基氏が死去すると、鎌倉へ赴いて事後処理を務めている。また、同年、高氏は細川頼之を推薦して管領に就任させている。

このように、義詮政権のもとでは、高氏は重鎮として主導的な役割を果たすが、文中2年(応安6年、1373年)8月25日、近江において78歳の生涯を閉じた。戒名は勝楽寺殿徳翁

高氏のあとは、長男・秀綱およびその子秀詮・氏詮、次男・秀宗はいずれも高氏に先立って戦死していたため、三男・高秀が継承した。

高氏は婆裟羅大名といわれる。この婆裟羅とは室町時代の流行で、華美な衣装などで飾り立てること、または横柄な振る舞いをすることを意味する。高氏の振る舞いはまさに婆裟羅と言われるにふさわしい横柄なものだったと言われているが、一方で茶道、華道、香道、歌道においてもすぐれた力量を発揮し、しかも世間の人をあっと驚かせるようなスケールの大きい、奇抜なことをやった人物であったようである。
▼ 高氏の宝篋印塔&「道誉の桜」のある清瀧寺京極家墓所(国指定史跡:米原)

京極家墓所

清龍寺・京極家墓所

清龍寺・京極家墓所

清龍寺・京極家墓所

清龍寺・京極家墓所

清龍寺・京極家墓所

本堂前にて

道誉の桜

道誉の桜

道誉の桜

道誉の桜 (4代目・京極高氏・佐々木道誉)

道誉の桜

道誉の桜: エゾヒガンザクラの一種で糸ざくらともいう。二代目の桜で、樹齢約300年、樹高約20m、胸高周り2.3m。高氏(道誉)は武力のみならず、茶道、華道、香道、歌道においても秀でており、この桜の木は道誉が植えたということから「道誉桜」と呼ばれている。昭和52年には3代目を植えている(市指定天然記念物)。

清龍寺・京極家墓所

清龍寺・京極家墓所

清龍寺・京極家墓所

清龍寺・京極家墓所

左より 高数(7代目)、経氏、持高、宗氏(3代目)、宗綱、高吉、高弥、高広、高清 ・・・
右より 氏信(初代)、貞宗、頼氏、高氏(4代目)、高秀(5代目)、高詮(6代目)、高光、持清、政光 ・・・

初代・氏信の墓石

3代・宗氏の墓石

4代・高氏の墓石

京極家初代・氏信の宝篋印塔
京極家3代目・宗氏の宝篋印塔
京極家4代目・高氏の宝篋印塔

4代・高氏の墓石

京極家4代目・高氏の宝篋印塔

清龍寺・京極家墓所・庭園

清瀧寺庭園
本堂に座して、ご住職夫妻と面談いただきながら眺める山裾を利用した紅葉なる庭園は絶景である。

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