安徳天皇の風呂の井戸・風呂の地蔵と不老の由来|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

「生命と微量元素」講座

安徳天皇の風呂の井戸・風呂の地蔵と地名「不老」の由来

安徳天皇ゆかりの風呂の井戸・風呂の地蔵と地名「不老」の由来

安徳天皇の「風呂の井戸・風呂の地蔵」は、福岡県北九州市門司区柳町2丁目10番(門司駅南口から徒歩約10分)にある。寿永二年、京都を追われた平家は安徳天皇を奉じて西下し、豊前国・柳が浦にたどり着き、この地を仮の御所「内裏」(だいり)と定めたが、「内裏」となったこの地で、池底より玉のように泡立ち滾々と湧き上がっていた「鏡ヶ池」の玉水を、天皇の旅の疲れを癒すための風呂の用水としたことから、この泉を「安徳帝風呂の井戸」と呼ぶようになったという。
すなわち、寿永二年(1183年)木曽義仲に都を追われた平家一門は、安徳天皇を奉じて西に逃れ、太宰府に落ちていった。しかし、ここでも、豊後の豪族、緒方三郎惟義が攻め寄せると聞いて、さらに住吉、箱崎、香椎、宗像を伏し拝み、遠賀郡山鹿の城(芦屋町)より海路で夜通しかかって、豊前国・柳が浦にたどり着いた。そして、この地を仮の御所「内裏」(だいり)と定め、 安徳天皇の屋敷など急ごしらえの造営を行なった。この「柳が浦」は現在の「大里」のことで、古い記録に「内裏」と書かれているのは、しばらくの間、仮の御所があったからである。
寿永2年(1183年)、「内裏」となったこの地で、天皇の旅の疲れを癒すため、池底より玉のように泡立ち滾々と湧き上がっていたこの「鏡ヶ池」の玉水を風呂の用水としたことから、この泉を「安徳帝風呂の井戸」と呼ぶようになったという。また、この周辺の字名は「風呂」となっていたが、大正の末期に「不老」に変え町名にした。現在では、門司駅前正面の「不老通り」にその名を残している。また、柳村には、寿永4年(1185年)に壇ノ浦の戦いで滅亡した平家一門の霊を祀る風呂禅院西光山大専寺があり、そこに安徳天皇の霊を祀る地蔵堂が在った。慶長年間の改宗で寺社は街道筋に移されたが、地蔵堂だけは風呂の横に残されていた。現在、改めて小堂が建てられ、安徳天皇の霊が弔らわれている。
■ 風呂の井戸・風呂の地蔵
<中学同窓・松崎泰士君撮影>

安徳天皇の風呂の井戸・風呂の地蔵と不老の由来

安徳天皇の風呂の井戸・風呂の地蔵と不老の由来

安徳天皇の風呂の井戸・風呂の地蔵と不老の由来

安徳天皇の風呂の井戸・風呂の地蔵と不老の由来

安徳天皇の風呂の井戸・風呂の地蔵と不老の由来

安徳天皇の風呂の井戸・風呂の地蔵と不老の由来

安徳天皇の風呂の井戸・風呂の地蔵と不老の由来

安徳天皇の風呂の井戸・風呂の地蔵と不老の由来

■ 風呂の井戸
木曽義仲の乱入で京都を追われた平家は再起の地を大宰府に求めたが、緒方惟義の反逆に遭い、住吉、箱崎、香椎、宗像を伏し拝み、芦屋から海路この柳ヶ浦に着き「内裏」を定めたのが寿永二年の秋であった。旅の疲れを癒すための風呂の用水がこの「鏡ヶ池の玉水」で、以来この泉を「安徳帝風呂の井戸」と言い伝えられている。この周辺の字名は「風呂」となっているが、大正の末期に「不老」として町名にした。
■ 風呂の地蔵
一度は西下した平家も空しく引揚げ、一の谷で敗れ再び西下、壇の浦の藻屑と消えたのが寿永四年であった。平家一門の霊を祀った風呂禅院「西光山大專寺」は柳村に在ったが、慶長年間に改宗して街道筋に移され、地蔵堂だけは風呂の一角に残されていた。今改めて小堂を建立し、御幼帝の霊を弔う。合掌
                         昭和四十六年八月        柳共有組合
■ 地名「不老」の由来
寿永2年(1183年)、京都を追われた平家は、安徳天皇を奉じて西下し、豊前国・柳が浦にたどり着き、この地を仮の御所「内裏」と定め、天皇の旅の疲れを癒すため、「鏡ヶ池」と呼ばれる泉から水を汲んで風呂の用水にしたことから、この泉を「安徳帝風呂の井戸」と呼び、このあたり一帯を「風呂」といっていた。しかし、大正時代に道路を整備した際、町名が「不老」に変わった。門司駅前正面の「不老通り」にその名を残している。現在は、住居表示によって「高田町」となっている。   北九州市

安徳天皇の風呂の井戸・風呂の地蔵と不老の由来

JR門司駅北口側より 遠景に霊峰・戸上山
2019.5.22 13.28〜撮影

PageTop