旧神戸製鋼所門司工場(現・神鋼メタルプロダクツ&リードミック)|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

「生命と微量元素」講座

「レトロ門司」復興への道

旧神戸製鋼所門司工場(現・神鋼メタルプロダクツ他)

旧神戸製鋼所門司工場(現・神鋼メタルプロダクツ&リードミック)

旧神戸製鋼所門司工場(現・神鋼メタルプロダクツ&リードミック)

左側:旧神戸製鋼門司工場、中:小倉方面、
遠方の山:左より足立山、砲台山、中部遠方の山:福智山

旧神戸製鋼所門司工場

旧神戸製鋼所門司工場(現・神鋼メタルプロダクツ&リードミック)
■ 歴史
旧神戸製鋼門司工場(当時は門司伸銅工場)は、今から102年前の大正6年(1917年)、第1次世界大戦の最中に、現在のJR鹿児島本線小森江駅近く(北九州市門司区小森江2丁目)の広大な敷地に建設された。現在、神戸製鋼門司工場は存在していないが、昭和63年(1988年)門司工場を分社独立化した神鋼メタルプロダクツと平成14年(2002年)設立の神鋼リードミック、そしてメタルプロダクツと同じく押出、抽伸技術を引継ぎ、超電導線材を製造している平成14年(2002年)設立のJASTEC門司工場が、かつて神戸製鋼門司工場があった場所で、102年にわたる歴史を今も引き継いでいる。

神鋼メタルプロダクツの工場施設は、JR鹿児島本線を挟み、当初からの施設群と昭和15年(1940年)に増設された海側の建物群に分れるが、戦前期からの施設が多く遺されており、当時の雰囲気を偲ぶことが出来る。例えば、門司工場が創業された大正6年(1917年)当時の名残ある「旧事務所」や「工場外壁」がそのまま遺されており、「旧事務所」社屋は現在倉庫になっている。また、JR線路に面した外壁には、当時の煉瓦がそのまま遺されており、しかも煉瓦棟の建屋内では、最新の「熱間静水圧押出プレス」が稼働しているという、創立以来100年を超える門司工場の長い歴史の重みに感じさせるものがある。

また、門司工場とは関係ないが、女流小説家の林芙美子(1903年〜1951年)の生家がこの敷地内にあったことから、記念碑が建てられ、文学的にも興味ある場所となっている。
▼ 旧神戸製鋼所門司工場の誕生
門司工場の歴史は、明治38年(1905年)、総合商社の鈴木商店が、神戸にあった小林製鋼所を買収したのが始まりである。大里製糖所の支配人であった田宮嘉右衛門を支配人に据えて経営を改善し、その10年後の大正6年(1917年)に門司小森江に非鉄金属の工場として設立したのが門司工場である。設立して10年足らずの神戸製鋼にとって門司工場は最初の分工場であった。神戸製鋼は、小森江に約1万坪(3.3h)の土地を購入し、門司工場の建設に着手した。大正6年(1917年)12月に溶解工場、管棒工場、特殊鋼工場を完成させ、翌年12月には銅、黄銅の板生産設備を完成させた。こうして門司工場は伸銅工場としての体制が整えられ、その後100年続く軽合金伸銅事業の礎を築いていった。
▼ 門司・小森江に設立した理由
鈴木商店が、神戸製鋼の工場を門司小森江に設立することにしたのは、大里・小森江地区の北側にある門司港が、明治22年(1889年)、石炭・米・麦・硫黄・麦粉の5特定品目を扱う国の特別輸出港に指定され、国際貿易港として開港し、その2年後には鉄道が敷かれ、船と鉄道の結節点となった門司港には、旧日本郵船(門司郵船ビル)や旧大阪商船(商船三井ビル)などの商船会社や大企業の金融関連会社など大手財閥が競って進出しているという背景があったからである。しかも、門司港は、開港後の輸出入も順調に伸び、国内有数の貿易港へ発展し、明治27年(1894年)から明治28年(1895年)にかけての日清戦争後には朝鮮や台湾、その後は大連や中国大陸への航路の拠点となり、昭和10年(1935年)頃の最盛期に至るまで国際貿易港の一大拠点として栄えていた。

これらに加えて、鈴木商店が門司の大里・小森江へ進出した更なる理由は、国際貿易港の一大拠点である門司港で、船舶艦船ボイラーに使用される銅管や真鍮管など非鉄金属材料大量な需要が見込まれたことがあったこと、また前年の大正5年(1916年)に、鈴木商店が銅の精錬所を門司に開設していたことも影響していた。

また、鈴木商店は、明治36年(1903年)、わが国初の臨海工場となる大里製糖所(現・関門製糖)、そして保税原糖保管のための大里倉庫(明治37年、現・岡野バルブ製造)を大里に設立し、これを礎にして、多角化事業を拡大し、明治43年(1910年)に国内初の再製塩工場である大里製塩所、明治44年(1911年)に大里製粉所を設立(後に鈴木系の札幌製粉、日本製粉、東亜製粉と合併し、日本製粉として現在に続く)。次いで、大里地区の臨海部には、九州最初の本格的ビール会社として帝國麦酒(大正2年、現・サッポロビール)、麦酒瓶製造の大里硝子製造所大里酒精製造所(大正3年、現・ニッカウヰスキー)、日本の電球を国産化した日本冶金(大正5年、現東邦金属)、大里製銅(大正5年)などの工場を次々と建設し、門司・大里地区に鈴木コンツェルンの一大工場群を建設する過渡期でもあった。
こうした背景を考えれば、その利便性からして、門司港に隣接する大里・小森江に目を向けることは当然の成り行きだったかもしれない。事実、この大里エリアは、八幡製鐵所誘致の最終候補地の一つにも選ばれるほど(惜しくも製鐵所の誘致には至らなかったが)、企業においては魅力的な場所であった。

門司工場が創業された大正6年(1917年)当時の背景をみると、大正3年(1914年)、第一次世界大戦の勃発で、鈴木商店は、戦時需要に乗り、鋼材、銑鉄、船舶、小麦などの一斉買い、さらに船舶の大量発注と同時に造船用鋼材の販売、世界各地で買いつけた貨物を船ごと売り渡す「一船売り」の離れ業などで莫大な利益を得ていた。大正6年(1917年)における鈴木商店の売上は、三井物産を凌駕して日本一の商社に躍り出たという。そうした絶頂期に、鈴木商店は神戸製鋼の工場を門司小森江に設立したのである。
▼ 軽合金伸銅事業の礎を築く
神戸製鋼は、門司・小森江に約1万坪(3.3h)の土地を購入し、大正6年(1917年)12月に溶解工場、管棒工場、特殊鋼工場を完成させ、翌年12月には銅、黄銅の板生産設備を完成させた。こうして門司工場は伸銅工場としての体制を整え、その後100年続く軽合金伸銅事業の礎を築いていった。

創業当時、蒸気タービンの復水管などの材料として、国産品、海外品を問わず、銅、亜鉛、錫からなる合金「アドミラリティブラス」が使われていたが、昭和3年(1928年)、駆逐艦の試運転中に復水管のトラブルで運転不能に陥ってしまう事件が発生した。門司工場は、「アドミラリティブラス」に代わる新たな合金開発に着手し、昭和9年(1934年)に銅、亜鉛、アルミニウムを主成分として、これにニッケル等を加えた新合金「アルミブラス」の開発に成功した。これまでは、すべて外国製品に頼っていたが、門司工場はそれを独自の製造・加工技術によって、完全国産化に成功したのである。その後、多くの復水管に使われるようになり、昭和12年(1937年)には門司工場が海軍直営軍需工場の指定を受けるに至り、その需要はさらに拡大していった。

また、門司工場は、昭和3年(1928年)、マグネシウム合金鋳物の製作に着手した。当時は航空機製造に関する多くの技術開発がすすめられていたが、機体を軽量化するためには、アルミよりも軽くて強いマグネシウム合金鋳物の実用化が不可欠とされていた。門司工場では、昭和6年(1931年)、日本初のマグネシウム合金鋳物の実用化に成功した。この成功以降、門司工場の生産量は他の軽金属とともに急上昇した。折しも、昭和7年(1932年)に満州事変が勃発し、これを契機とした航空機生産量の急増が需要の好調を後押しした。

昭和20年(1945年)、日本は敗戦し終戦を迎える。GHQ(連合軍司令部)の占領統治下で、神戸製鋼は、昭和24年(1949年)、GHQの方針に基づく「過度経済力集中排除法」によって3社に分割され、8月には神鋼金属工業、神鋼電機(現・シンフォニア テクノロジー)が設立される。門司工場は、長府工場とともに「神鋼金属工業」に譲渡される。再び神戸製鋼に復帰したのは、昭和32年(1957年)である。

7年有余の歳月は、神鋼金属工業にとって険しい道のりの連続であったが、その後の日本の高度成長を背景に、需要が拡大し、とくに復水管事業は、年々増産を続け、設備も増強し業界トップの座を堅持し続けた。最盛期の昭和54年(1979年)から翌1980年にかけては、月産の売上量が1800tにまで達することもあった。しかし、この好調は長く続かなかった。第2次オイルショックを境に1980年代以降需要は一転して低迷することになる。
▼ 分離独立し「神鋼メタルプロダクツ」として再出発
1980年代以降、第2次オイルショックを契機に需要の低迷が続き、「鉄冷え」と呼ばれた鉄鋼・金属の低調と、それに伴う合理化方針の中で、昭和63年(1988年)4月、神戸製鋼の組織変更とともに門司工場を「分社独立化」することになった。その結果、門司工場は、資本金2億円、従業員160名を擁する新会社「神鋼メタルプロダクツ株式会社」として再出発することになる。

現在の主要な取り組みは、創業時と同様に、銅管と銅合金管事業が主で、全体の売上の約6割を占め、神鋼メタルプロダクツの主力製品になっているという。門司工場が創業した100年前は、銅管と銅合金管が100%を占めていたが、時代とともにこの割合は減ってきているという。
昭和60年(1985年)に開始したスタンピング事業については、一時長府工場の組織に組み込まれていたが、平成14年(2002年)にリードミックと統合され「神鋼リードミック株式会社」として操業を開始した。現在、神戸製鋼門司工場は存在していないが、神鋼メタルプロダクツ神鋼リードミック、そしてメタルプロダクツと同じく押出、抽伸技術を受け継ぎ、超電導線材を製造している2002年設立のJASTEC門司工場が、かつて神戸製鋼門司工場があった場所で、100年にわたる歴史を今も引き継いでいる。
<中学同窓・田中文君撮影>

旧神戸製鋼所門司工場

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▼ 先進統合の神鋼リードミック株式会社
神鋼リードミック株式会社は、昭和59年(1984年)に設立したリードミック株式会社のメッキを中心とした事業と、昭和60年(1985年)に門司工場で開始したリードフレームをプレスする事業を統合して平成14年(2002年)11月に設立した。

現在の主要な取り組みは、金型の製作からスタンピング、さらにメッキまでの、リードフレームの一貫生産体制で取り組んでおり、この事業が全体の4割を占めているという。現在の主力製品となっているのは、エンジン系、燃焼系用リードフレーム、駆動系などの制御モジュール用リードフレームなど、車載用途が多く、とくに点火プラグ制御用リードフレームに関しては、現在国内で生産されているエンジンの大半に採用されているという。また、車載用途のほかにも、家電などのインバーターに使われるモジュール用のリードフレームを生産している。

また、より高速に、大容量に進化するITに対応するために、神戸製鋼所の研究開発部門と一体となった様々なR&Dを推進し、次代のニーズを先取りした表面機能化技術の開発、新たな材料開発、生産技術のさらなる向上など、総合的な研究開発でITの技術革新への貢献を目指しているという。

旧神戸製鋼所門司工場

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旧神戸製鋼所門司工場

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2019.7.28 9.40〜撮影

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