旧大里製粉所倉庫(旧日本製粉倉庫、現・ニッカウヰスキー門司工場倉庫)(近代化産業遺産)|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

「生命と微量元素」講座

「レトロ門司」復興への道

旧大里製粉所倉庫(現・ニッカウヰスキー門司工場倉庫)

旧大里製粉所倉庫(旧日本製粉倉庫、現・ニッカウヰスキー門司工場倉庫)

旧大里製粉所倉庫(旧日本製粉倉庫、現・ニッカウヰスキー門司工場倉庫)

■ 歴史
旧大里製粉所倉庫(旧日本製粉倉庫、現・ニッカウヰスキー門司工場倉庫)は、北九州市門司区大里元町2-1にあり、明治32年(1899年)に実施された関税定率法を契機に、国産の製粉の需要が増え、国内の機械製粉企業が増える中、神戸に本社を置く鈴木商店が、明治43年(1910年)に大里への製粉会社進出計画を発表し、翌年の明治44年(1911年)に設立した「大里製粉所」の工場群で、唯一現存する倉庫である。(近代化産業遺産)

大正4年(1915年)に、大里製粉所は火災に見舞われ、工場1棟、倉庫2棟が全焼するが、復旧を急ぎ、翌年(大正5年)に再開させた。この時に再建された倉庫が、現・ニッカウヰスキーの倉庫である。

大正9年(1920年)、鈴木商店系2社:大里製粉所、札幌製粉所日本製粉との統合が実現し、さらに、大正14年(1924年)には鈴木系の東亜製粉も日本製粉に合流し、日本製粉は日清製粉と日本の製粉業界を二分する一大製粉企業となる。

平成9年(1997年)、日本製粉が進める九州地区の製粉工場の集約化によって、日本製粉門司工場(旧大里製粉所)は閉鎖され、大里で稼働した88年間の歴史に幕を閉じた。閉鎖後、不要になった工場棟や倉庫は次々と解体されたが、大正4年工場火災後(大正5年)に建てられ、ニッカウヰスキーの所有物となった倉庫(現・ニッカウヰスキー門司工場倉庫)だけは解体から免れた。赤煉瓦造り平屋建てで、大小あわせて8棟の倉庫である。

ニッカウヰスキー門司工場倉庫の赤煉瓦8棟が、門司区の国道199号線沿いに、鑑賞の妨げもなく、並列して見える景色は壮観である。夜間にはライトアップされ、大正ロマンを醸し出す。近代化産業遺産に認定されている。(現在は、ニッカウヰスキーの名前を冠しているが、平成13年(2001年)にアサヒビールの子会社となり、アサヒビールの焼酎工場となっている)。ちなみに、明治44年(1911年)築の煉瓦造2階建ての日本製粉門司工場倉庫(旧大里製粉所)など、他の煉瓦建造物群は、平成21年(2009年)に解体された。
<中学同窓・田中文君撮影>

旧大里製粉所倉庫(旧日本製粉倉庫、現・ニッカウヰスキー門司工場倉庫)

旧大里製粉所倉庫(旧日本製粉倉庫、現・ニッカウヰスキー門司工場倉庫)

旧大里製粉所倉庫(旧日本製粉倉庫、現・ニッカウヰスキー門司工場倉庫)

旧大里製粉所倉庫(旧日本製粉倉庫、現・ニッカウヰスキー門司工場倉庫)

▼ 新興財閥「鈴木商店」の門司・大里への進出
JR門司駅から小森江駅周辺にかけて、海沿いのエリアに赤煉瓦の古い建物が立ち並ぶ。これらの煉瓦建築のほとんどは、三井・三菱財閥と並ぶ大企業として、大正期〜昭和初期に繁栄した幻の新興財閥・「鈴木商店」が関連した企業の建物である。これらの中には、門司駅前の門司麦酒煉瓦館を含む建築群「門司赤煉瓦プレイス」のように、観光地や商業施設として保存・活用されている建物もあるが、今でも現役で倉庫や工場として利用されている建物もある。
● 洋糖商人から「日本一の総合商社」に成長した「鈴木商店」
鈴木商店は、神戸の洋糖商人から始まり、財閥を圧倒しながら「日本一の総合商社」へと登りつめ、日本の明治・大正期の産業革命を牽引するものの昭和恐慌で破たんした伝説的かつ幻の商社である。すなわち、鈴木商店は、鈴木岩治郎明治7年(1874年)に洋糖引取商として神戸で創業し、神戸有数の大貿易商にまで急成長する。しかし、明治27年(1894年)、岩治郎が急死したため、「お家さん」こと夫人の鈴木よねが後を引き継ぎ、後に財界のナポレオン・煙突男と呼ばれた金子直吉、そして柳田富士松に店を任せ、再出発した。経営を任された大番頭の金子直吉の手腕により、製糖・製粉・ビール・製鋼などの事業を展開し、後に日本NO.1の総合商社にまで登りつめる。すなわち、最盛期には日本一の売上げ(日本のGDPの約13%)を誇り、日商岩井(現・双日グループ)をはじめ、神戸製鋼所帝人など数十社の企業の源流となった新興財閥となる。その鈴木商店の痕跡が日本で一番残っているのが、関門海峡を挟んだ両岸一帯である。
● 新興財閥「鈴木商店」の門司・大里への進出
本社を神戸に置く鈴木商店が、門司・大里へ進出した理由の一つは、洋糖商として確固たる地盤を築くためには製糖部門への進出が緊急の課題であったことである。当初、大番頭の金子直吉は、台湾民政長官・後藤新平との親しい関係から、台湾の基隆に台湾随一の製糖工場を建設しようと計画したが、後藤と鈴木との関係が議会で問題視されたため、台湾における製糖事業を断念した。一方、国内では、大日本製糖が関西糖業界を牛耳っており、これに対抗する必要があった。

折しも、当時の門司では、明治22年(1889年)、門司港が石炭・米・麦・硫黄・麦粉の5特定品目を扱う国の特別輸出港に指定され、旧門司税関が設置され、明治23年(1890年)には第一船溜まりなど、港湾が整備された。(明治30年(1897年)には、その北側に第二船溜まりが完成している)。これを契機に、明治24年(1891年)に、九州で初めての鉄道会社として明治21年(1888年)に設立された九州鉄道会社が、門司−高瀬(現在の玉名駅、熊本県)間の鉄道を開通させ、門司駅(現在の門司港駅)が開業され、あわせて明治24年(1891年)、本社屋(現・九州鉄道記念館)が建設された。
時代は石炭ブームであり、港と鉄道ができたことで、九州鉄道は、石炭産出地の筑豊と積出港である門司港をつなぐ輸送手段として大きな役割を果たすことになる。そして、明治27〜28年(1894〜95年)の日清戦争を経て、門司港は九州の玄関口として、石炭の積出港として急速な発展を遂げることになる。
そして、船と鉄道の結節点となった門司港には、旧日本郵船(門司郵船ビル)や旧大阪商船(商船三井ビル)などの商船会社や大企業の金融関連会社などが結集し、それぞれの社屋が建設され、急激に市街地が形成されていった。
ちなみに、門司港は、開港後の輸出入も順調に伸び、明治34年(1901年)には貿易額で大阪に次いで全国第4位と国内有数の貿易港へ発展し、明治42年(1909年)11月5日に、旧門司税関が日本で7番目の税関として発足した。国際貿易港の一大拠点として、日清戦争後には朝鮮や台湾、その後は大連や中国大陸への航路の拠点となり、昭和10年(1935年)頃が最盛期であったという。

このように、大里地区の北側にある門司港が明治22年に国際貿易港として開港し、その2年後には鉄道が敷かれ、現在の門司港駅も開業し、港と鉄道が整い、大手財閥が競って進出しているという背景を考えれば、その利便性からして、門司港に近い大里に目を向けることは当然の成り行きだったかもしれない。すなわち、鉄道で原材料や製品を運ぶことができ、船を使っても運ぶことができる。さらには門司港から外国に輸出することも可能である。この大里エリアは、八幡製鐵所誘致の最終候補地の一つにも選ばれるほど(惜しくも製鐵所の誘致には至らなかったが)、企業においては魅力的な場所であった。製糖工場の建設地を探していた鈴木商店にとっては願ってもない魅力的な場所であったに違いない。
これらに加えて、鈴木商店が門司・大里へ進出した更なる理由は、大里の水質が製糖に適していること、豊富な石炭労働力が得られること、原料であるジャワ糖の輸入コストを削減できることなど、大里に多くの利点が存在することであった。鈴木商店にとっては、国内で関西糖業界を牛耳っている大日本製糖に対抗するためにも、北九州・大里における大里製糖所(現・関門製糖)の設立とその成功は、究極の願いであり、大里に我が国初の臨海工場を建設する最大の理由でもあった。

鈴木商店は、明治36年、大里に大里製糖所(現関門製糖)の設立に着手した。これは、鈴木商店が本格的に生産部門に進出し多角化に進む契機となった事業でもあるが、鈴木商店と大阪辰巳屋(藤田助七)の共同出資による船出であった。試行錯誤の末、ようやく良質の砂糖の製造に漕ぎつけ、大里の砂糖は全国に普及し始めた。大里製糖所の躍進に脅威を感じた先発の日本精糖(大阪)と日本精製糖(東京)の2社は合併して「大日本製糖」を設立して対抗するが、大里の勢いは強く、圧倒された大日本製糖は大里との合併を申し入れてきた。

鈴木商店・大番頭の金子直吉は、合併に応じない代わりに、買収に応じることとし、明治40年(1907年)に大里製糖所を大日本製糖に650万円にて売却、見返りに一手販売権を取得した。こうして得た巨額の売却資金がその後の鈴木商店の発展の大きな原動力(多角化展開の原資)となった。

一方の大日本製糖は、その後も鈴木系製糖会社を始め多くの製糖会社との合併を経て現・大日本明治製糖として今日に至る。なお、旧大里製糖所のレンガ造りの工場では、大日本明治製糖(三菱系)と日本甜菜製糖の合弁会社「関門製糖」が両社の受託を受けて現在も砂糖製造を行っている。

多角化の手始めに、鈴木商店は大里の地の利を活かし、まず明治44年(1911年)に大里製粉所を設立した。後に鈴木系の札幌製粉、日本製粉、東亜製粉と合併し、日本製粉として現在に続く。

その後、大里地区の臨海部には、大里製塩所帝國麦酒(現・サッポロビール)、麦酒瓶製造の大里硝子製造所大里酒精製造所(現・ニッカウヰスキー)、大里倉庫(現・岡野バルブ製造)、大里製銅日本冶金(現東邦金属)、神戸製鋼所・小森江工場(現神鋼メタルプロダクツ)、鈴木商店精米工場などが、また同時期に対岸の下関地区にも日本金属・彦島製錬所、彦島坩堝ほか鈴木系の工場が次々と建設され、関門地区に鈴木コンツェルン一大工場群が建設されていった。
▼ 大里製粉所の設立
明治32年(1899年)に実施された関税定率法を契機に、関税のかかる米利堅粉(メリケン粉)の輸入を抑えるべく、国産製粉の需要が増え、国内の機械製粉企業が増える中、神戸に本社を置く鈴木商店は、明治43年(1910年)に大里への製粉会社進出計画を発表し、翌年の明治44年(1911年)に「大里製粉所」を設立した。鈴木商店において小麦は創業時からの重要品目であり、明治39年(1906年)に東亜製粉、明治42年(1909)年)に札幌製粉を傘下に収め、鈴木商店所有の大里税関仮置場隣接地8,000坪に、工場240坪、製品倉庫500坪、原料倉庫2000坪(現・ニッカウヰスキー(株)門司工場倉庫を含む)の製粉会社を建設し、明治44年(1911年)に操業が開始した。

大正4年(1915年)に、大里製粉所は火災に見舞われ、工場1棟、倉庫2棟が全焼するが、復旧を急ぎ、翌年(大正5年)に再開させた。この時に再建された倉庫が、現・ニッカウヰスキーの倉庫である。

大正8年(1919年)、明治20年(1887年)創業の日本製粉(社長・岩崎清七)が、ライバルの日清製粉に対抗するため、合併による規模拡大化を画策し、大里製粉所、札幌製粉所との統合を鈴木商店に打診してくる。鈴木商店の大番頭・金子直吉は、日本製粉向け原料の供給と製品の一手販売権を条件に、これに応じ、大正9年(1920年)、鈴木商店系2社日本製粉との統合が実現した。さらに、大正14年(1924年)には鈴木系の東亜製粉も日本製粉に合流し、日本製粉は日清製粉と日本の製粉業界を二分する一大製粉企業となる。

日本製粉の買い付ける原料代金の支払いと鈴木商店に売り渡す製品代金の受け取りは、両社間の融通手形により恒常的に行われ、資金面でも鈴木商店が援助した。しかし、第一次大戦後の不況から小麦相場の乱高下、関東大震災が日本製粉を襲い、深刻な経営危機に陥った。すなわち、大正3年(1914年7月28日)〜大正7年(1918年)11月11日)の第一次世界大戦中の戦時バブル(=日本の大戦景気)は、大戦の終結とともに崩壊し、後に起こる昭和恐慌の発端となった。大正9年(1920年)には戦後恐慌が発生、大正11年(1922年)の銀行恐慌、そして大正12年(1923年)には関東大震災による震災恐慌が次々と起こって再び恐慌に陥った。さらに、関東大震災による経済の混乱がおさまらない中、昭和2年(1927年)、銀行が抱えた不良債権が金融システムの悪化を招き、銀行の破綻に端を発した昭和金融恐慌が発生、さらに続いて昭和4年(1929年)10月にアメリカ合衆国で起き、世界中を巻き込んでいった世界恐慌が日本にも影響を及ぼし、翌昭和5年(1930年)から昭和6年(1931年)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた。すなわち、戦前の日本における最も深刻な恐慌、いわゆる昭和恐慌を引き起こした。
この昭和恐慌は鈴木商店にも波及し、鈴木商店破綻することになったが、日本製粉は経営の危機を三井物産の支援によって乗り越える。

平成9年(1997年)、日本製粉が進める九州地区の製粉工場の集約化によって、門司工場閉鎖され、大里で稼働した88年間の歴史に幕を閉じた。
■ 復元・保存への道
平成9年(1997年)、日本製粉が進める九州地区の製粉工場の集約化によって、日本製粉門司工場(旧大里製粉所)は閉鎖され、大里で稼働した88年間の歴史に幕を閉じた。閉鎖後、不要になった工場棟や倉庫は次々と解体されたが、大正4年の工場火災後(大正5年)に建てられ、ニッカウヰスキーの所有物となった倉庫(現・ニッカウヰスキー門司工場倉庫)だけは解体を免れた。赤煉瓦造り平屋建てで、大小あわせて8棟の倉庫である。

ニッカウヰスキー門司工場倉庫の赤煉瓦8棟が、門司区の国道199号線沿いに、鑑賞の妨げもなく、並列して見える景色は壮観である。夜間にはライトアップされ、大正ロマンを醸し出す。近代化産業遺産に認定されている。(現在は、ニッカウヰスキーの名前を冠しているが、平成13年(2001年)にアサヒビールの子会社となり、アサヒビールの焼酎工場となっている)。ちなみに、明治44年(1911年)築の煉瓦造2階建ての日本製粉門司工場倉庫(旧大里製粉所)など、他の煉瓦建造物群は、平成21年(2009年)に解体された。

PageTop