旧門司三井倶楽部(門鉄会館)|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

「生命と微量元素」講座

レトロ門司」復興への道

旧門司三井倶楽部(門鉄会館)(国の重要文化財)

旧門司三井倶楽部(門鉄会館)

■ 歴史
旧門司三井倶楽部は、北九州市門司区港町にある歴史的建造物。国の重要文化財に指定されている。設計者:松田昌平 、建築主:三井物産、構造形式:木造、本館:901m2、付属屋:182m2、倉庫46m2 m²、本館、附属屋2棟 附 幣串1本、倉庫1棟

門鉄会館の前身、旧門司三井倶楽部は、大正10年(1921年)、三井物産株式会社が門司区谷町の山あいにある新興住宅地に建設した接客施設(社交クラブ)である。建物は、直方市出身の松田昌平の設計で、ハーフティンバー様式(木骨様式)と呼ばれるヨーロッパ伝統の木造建築工法で作られており、接客用の洋風の本館と、それに接続するサービス用の和風の付属屋および倉庫からなる。本館は木造2階建で、中央の大きなスレート屋根に切妻の小さな屋根窓を設けている。外壁は瓦張りの下地の上に、1階は人造石洗い出し壁、2階や出窓の部分をハーフティンバーとし、ドイツ壁と呼ばれる表面が凹凸の味わい深いモルタル掃き付け壁が施されている。すなわち、木造の骨組みの間を漆喰やレンガ、石などを埋めて壁が作られ、木造の骨組みがそのまま外観デザインのアクセントとなっている。ドイツ壁は当時の流行であり、変化に富んだ外観を形作っている。

本館1階はホールを中心に、食堂、応接室、客間が配置され、2階には居間や寝室や浴室がある。本館の背面に取り付いているサービス用の附属屋は、管理人などの住居として使用されていた。内装には各部屋にマントルピース(暖炉)が配置され、ドア枠、窓枠、大階段の親柱などには幾何学模様のアールデコ調の飾りがされており、大正ロマン大正モダンの優雅な雰囲気を醸し出す設えとなっている。なお、谷町にあった時(門司港駅前に移築する前)、旧門司三井倶楽部のすぐ裏手には、三井物産門司支店長宅が配置されていた。明治35年(1902年)、20世紀早々に建てられたハイカラな洋館である。

戦後、三井物産が占領軍の財閥解体令で分割されたため清算財産になった。昭和24年(1949年)、官営から公舎に移行した旧国鉄に買収され、昭和62年(1987年)までは「門鉄会館」と呼ばれる門司鉄道管理局の職員クラブとして使用されてきた。また同様に、三井物産門司支店長宅も国鉄が官営から公舎に移行したときに買収され、国鉄九州総局長公舎として利用されてきた。門司鉄道局、九州支社、九州総局などと機関名は変遷したものの、常に国鉄九州探題たる人物の公宅にふさわしい格式を備えた建物だった。
しかし、旧国鉄の分割、民営化により、昭和62年4月、門鉄会館も国鉄精算事業団の管理下に置かれ、売却処分や解体の危機にあった。その後、「門鉄会館」は北九州市に無償譲渡され、昭和63年12月23日、自治省採択の「門司港レトロめぐり海峡めぐり推進事業」によって、この建築物を門司港駅前に移築保存活用することが可能となり、平成2年7月より解体工事、平成3年3月より移築工事が開始された。その間、平成2年3月には、国の重要文化財に指定された。しかし、後述の如く、「国鉄九州総局長公舎」は、昭和60年10月に解体となる。

本館・附属屋とも戦前までの改造はほとんどなかったようであるが、戦後、本館の小屋裏に物置部屋を設け、昭和30年代に宿泊施設にするため2階の寝室が和室に改造され、附属屋の炊事場も拡張された。また、屋根は石綿スレート葺へ葺き替えられ、外側の木部のペイントカラーの変更、内装材や照明器具の改変などが実施されている。

以下、復元保存を実現させた行政側の努力に敬意を表しエピソードを交えて紹介する。

船溜まりから見たレトロ建物

第一船溜まりから見たレトロ建造物群
対岸中央に旧三井倶楽部、左後方に旧三井物産ビル(旧門鉄ビル)、右後方に旧日本郵船ビル

旧門司三井倶楽部(門鉄会館)

旧門司三井倶楽部(門鉄会館)本館正面

旧門司三井倶楽部(門鉄会館)

付属屋、倉庫(手前)

旧門司三井倶楽部(門鉄会館)

旧門司三井倶楽部(門鉄会館)

旧門司三井倶楽部(門鉄会館)

本館
■ 復元・保存への道
▼「門鉄会館」保存への始動
門鉄会館」(旧門司三井倶楽部)保存への動きの発端は、昭和59年2月、当時の谷伍平市長と田村剛門司鉄道管理局長の懇談の際に出た門鉄会館保存話である。谷市長は、自分が国鉄九州支社長時代の昭和38年から39年にかけて住んだことがある国鉄九州総局長公舎(旧三井物産門司支店長宅)が遠からず解体されることを愛惜し、さらに門鉄総務部長時代に局長と相談して職員クラブとして活用した「門司会館」の存亡を懸念した。そして、由緒ある建物の保存を熱望した。田村門鉄局長も共感し、その2ヶ月後の昭和59年4月、局長の指示で門鉄局課長と市教委とにおいて「門鉄会館の保存」についての協議が持たれ、市の方も教育委員会が中心になり、国の文化財指定の可能性について模索を始めた。

昭和59年5月、市文化財保護審議会委員による建築学上の価値についての調査、同年10月、中林勝男市教育長(のち京都大学事務局長)による文化庁への専門調査官の調査派遣要請、昭和60年2月、文化庁から斎藤英俊文化財調査官の出張、門鉄会館を含む北九州市内全域の近代建造物を視察、斎藤調査官による価値の認知、‥など。
価値は認められたが、すぐに国指定文化財になれるものではない。昭和60年当時は、大正建築の保存はおろか、明治建築の保存すらその対象ではなく、時期早尚であった。しかし、地元住民の保存運動の高まりもあり、その2年後、市議会総務財政委員会メンバーによる門鉄会館の現地視察を企画するが、門司港地区の歴史的建造物は門鉄会館だけでなく、どれもが所有者の都合で取り壊しの危機に瀕しており、市は財政が苦しく、保存に必要な資金がなくて、保存に乗り出そうにも乗り出せない状況にあった。
▼ 解体・消滅の危機
上述の如く、門鉄会館の前身、旧門司三井倶楽部は、大正10年(1921年)、三井物産の社交クラブとして建てられた。戦後、三井物産が占領軍の財閥解体令分割されたため、清算財産になった。昭和24年、国鉄が官営から公舎に移行したときに買収され、「門鉄会館」と呼ばれる門司鉄道管理局職員クラブとして使用されてきた。昭和59年当時でも築後60年を超えてなお往時の面影を残していたが、国鉄民営化が確定した時から、将来の処置が懸念されていた。

門鉄会館だけだはない。そのほかにも商船三井ビル旧門司税関など、保存したい歴史的建造物が次々と取り壊しの危機にあるという情報が、市教委に入ってくる。市教委は企画局にも協力を求めるが、市は財政が苦しく、企画課でも保存に乗り出すだけの有効な対応策を見出せず、窮地に陥っていた。

そうこうしている内に、国鉄側の事態は進展し、「昭和60年10月、国鉄九州総局長公舎解体工事を開始し、12月には門鉄会館解体の方針である」と国鉄から市教委に伝えて来た。「民営化の時点で門鉄会館の土地を売却することを国鉄本社が決めた。建物の簿価はゼロだから取り壊すことになる。市が文化財に指定するなら、所有者が変わってからにしてほしい」という趣旨のものである。この時点では、門鉄会館を保存する手段は見出せず、市教委でも、市文化財保護審議会に載せることを断念せざるを得ないムードとなった。
昭和62年4月国鉄民営化とともに、「門鉄会館」も国鉄精算事業団の手に移った。旧国鉄の資産をなるべく早く売却するのが事業団の仕事である。もはや、門鉄会館の命は風前の灯火だった。

同じ時期、企画局は門司港地区の活性化策について検討を始めていた。この年の2月、市長を5期務めた谷氏が退任し、末吉興一氏が市長に初当選した。末吉市長は選挙中、「門司のすばらしい文化遺産である歴史的建造物を保存し、産業博物館や鉄道博物館として活かし、都市景観を生彩あるものにしたい」と抱負を述べ、公約した。
早速、この年の5月、地元住民から市長と市議会議長あてに「門鉄会館の管理、保存について」の陳情書が出された。さらに6月には、住民2385人の署名を添えて市議会に請願書が提出された。末吉市長は、この6月市議会予算特駆委員会で、「地元の要望に沿えるよう努力する」と答弁した。そして、陳情書への対応を企画局に命じた。以後、「門鉄会館の保存聞題」は企画局の課題になり、国鉄清算事業団との折衝を始めた。しかし、先方の言い分は国鉄時代と全く同じであった。
7月に門鉄会館問題関係部局の課長会議を開き、有効活用策土地購入方法の可能性について検討したけれど、これといった妙案は浮かばなかった。末吉市長も、3月31日、売却を阻止する権利もなく、買い取る金もない立場を承知で、「対応策を決定するまで、門鉄会館を本市に協議することなく処分されないよう、また、管理保存体制についても火災や事故等が生じないように十分なご配慮をお願い申し上げます。」と、極めて厚かましい内容の要請状国鉄溝算事業団九州資産管理部あてに送っている。「門鉄会館」売却の阻止を願う一念の必死の牽制球だったのであろう。

市民団体「門司まちづくり21世紀の会」からは、同じころ「門司港・西海岸地区整備構想」の提案や、12月には「門司港・和布刈地区の整備について要請が末吉市長に出されている。このように、市民の間でも門鉄会館をめぐって動きが活発になって来ているにもかかわらず、行政の側にはこれといった打開策がなく、この時期、担当者たちは最も進退窮まった心境にあったと察せられる。

そんな中、昭和62年の年末に、自治省から竹下首相の「ふるさと創生」政策の一環として創設された「ふるさとづくり特別対策事業」(ふる特)募集の知らせが入ったのである。市は、「天の啓示」とばかり、これに飛びつき、「門司港レトロ事業」の命運をかけたのも当然の成り行きである。まさに、「ふる特」は絶妙のタイミングで舞い込んでくれた救いの神である。
▼「ふる特」採択に救われた門鉄会館
上述したように、門司港レトロ事業は、昭和62年12月、竹下首相の「ふるさと創生」政策の一環として自治省で創設された「ふるさとづくり特別対策事業」(ふる特)への申請、そして昭和63年6月24日の採択によって救われ、開始されることになる。

自治省門司港レトロ事業を「ふる特」に採択したと発表してから半年後の昭和63年12月23日、市がまとめた「門司港レトロめぐり・海峡めぐり推進事業」の基本計画が、自治省の「ふる特」に正式に承認された。そして、本事業は12月には末吉市政のグランドデザインともいうべき北九州市ルネッサンス構想でも、「緑とウォーターフロントを生かした快適居住都市づくり」をめざす主要プロジェクトの一つとして位置づけられた。(ちなみに、「門司港レトロ」に「海峡めぐり」をくっつけ、長いネーミングになったのは、建設局がすでに整備にかかっていた「眺望絶佳の瀬戸内海国立公園・和布刈地区と、レトロ調いっぱいの門司港地区を一体化し、広い面を持つ観光拠点を展開しよう」という構想を接合させる意図からである。)

すなわち、「ふる特」に採用された「門鉄会館の移築を含む門司港レトロ計画」は、3つの基本方針「歴史のいきづく大正ロマンのまち」「うるおいと活気に満ちたウォーターフロント」「特色ある文化創造の拠点」のもと、「ふる特」では、@ 歴史的建造物保存活用事業 A レトロめぐり事業 B 海峡めぐり事業 C 観光施設等整備事業の4事業に分けて実施することになり、いずれも自治省の支援が受けられることになったのである。

裏話であるが、申請当初、とくに指摘されたのが、門鉄会館の件だった。門司港レトロはいいとして、門鉄会館移築は「ふる特」に該当しない。「ふる特」はハコモノを対象としないので、門鉄会館移築は「ふる特」の対象外。第一、文化庁が承知しないだろう、ということであった。しかし、本市財政局長に出向した後、本省に戻っていた石井窪一氏(のち総務省消防庁長官)の格段の配慮で、門鉄会館の移築を含む門司港レトロ計画は「ふる特」に採択されて、事業を始めることができた。すなわち、この採択によって、門司港地区の歴史的建造物の復元や保存が、門司港レトロ事業の中に包含することで可能になった。もし石井氏の応援がなかったならば、「門鉄会館の保存はもちろん、門司港レトロは誕生していなかった。さらに、門鉄会館が「ふる特」の対象にならず復元ができなかったとしたら、旧大阪商船ビルも姿を消していただろう。本来なら「ふる特」の枠に入れない「ハコモノの復元保存」を実現するために、関係部局に相当の根回しをしてくれたに違いない。
▼ 実施段階における種々の難問
実際に事業を開始する段になると、予期せぬ障害や思惑はずれで手直しや追加せざるを得ない事業など、種々の問題が発生した。例えば、1.自治省と建設省が縄張り争い、2.門鉄会館移築に建築基準法の壁、3.駅前をレトロ広場に整備し、交通広場を設置するための貿易ビルの解体、4.難航した立ち退きと用地買収、5.テナントに迫られビル家賃減額、6.超高層マンション建設で和解、7.旧三菱倉庫買い取り不調、解体となる、等々である。もちろん、その過程で、旧門司三井倶楽部が国重要文化財に指定、大連の歴史的建造物で友好促進し、国際友好記念図書館は現地材料使用など、ラッキーな報酬もあった。

2,3について、簡単に説明すると、門鉄会館門司港駅前移築して名称も前身の旧門司三井倶楽部と呼ぶことにしたが、駅前整備に伴う移築先用地のビルの解体やレトロ広場に交通広場を設置するための貿易ビルの解体などによって生じる立ち退き、用地買収、入居者の移転先などの問題で難航した。入居者の移転先については、業務ビル「Port Moji壱番館」を新築し、合わせて30社を収容する措置をとった。
文化広場には、旧税関旧三菱倉庫の赤レンガの建物を配置してレトロの雰囲気を醸し出す予定だったが、倉庫の転売先企業が解体してマンション建設という予想外の展開になり、当初計画になかった国際友好記念図書館が建設された。
旧税関は、港湾局の守備範囲で、企画局が主導する「ふる特」の直接の対象ではなかったが(一応、基本計画では帆船記念館として位置づけられていたが)、のちに、運輸省の「歴史的港湾環境創造事業」に採択され、復元が可能になった。完成後は、門司港レトロの要的存在となった。
第一船だまりも、当初は埋め立てる計画であったが、民間有識者の意見を尊重し、埋立て計画を中止した。代わりに、残った船だまりの入口には、「はね橋」を架けて観光ポイントを増やした。
また、基本計画にはなかったが、第一船だまりの北側に、民間企業と市の出資による第三セクター方式で、地元待望の本格ホテル「門司港ホテル」の設置が実現した。この本格ホテルの完成で、門司港レトロへの観光受け入れ態勢が整った。
▼ 自治省と建設省、企画局と港湾局の計画が正面衝突
しかし、実際に事業を開始する段になると、種々の問題が発生した。当時、自治省創設の「ふる特」は、建設省先行の門司港ポートルネッサンス計画守備範囲(縄張り)を侵犯するものであるとして、中央では自治省と建設省が反目していた。当然、北九州市でも連動して企画局と港湾局との間で軋礫(企画局と港湾局の計画が正面衝突)が生じることになる。

この難しい時期に、中学同窓の稲佐重正君・湾局東部港営事務所長(港湾局開発課係長)は門司港全体の計画策定を任され、当初より計画上対立していた先行の港湾局ポートルネッサンス計画と後行の企画局レトロ計画(「ふる特」対象)を接合させ、(結局は後行の企画局のレトロ計画(「ふる特」が主となるが)、事業の円滑化に尽力している。道路計画としての跳ね橋旧門司三井倶楽部の復元、大連の国際友好記念図書館(大連記念館)、さらに旧門司税関ビルの復元を担当、その後、門司港ホテルの建設も計画担当している。
▼ 門鉄会館の移築に建築基準法の壁
旧門司三井倶楽部(門鉄会館)の門司港駅前への移築計画は、当初より法律の壁に阻まれた。駅前一帯は、都市計画法にもとづく防火地域に指定され、建築基準法によって地域内に高さ13mを超える大規模木造建物の建築は禁じられていた。高さは原則を5.5mも超えており、耐火構造に改造すればなんとかなるが、それでは大正の面影は消えてしまう。国指定重要文化財にしてもらえば、敷地の問題も高さ制限も建築基準法第3条の除外規定ですべてクリアできる。解決策は重文指定あるのみとして、企画局の佐々木富雄主幹が担当となり、文化財保護の観点から市教委・文化課の柏木氏の協力を得て、文化庁への働きかけが開始された。当初は、疎明資料不足の感もあり、また移転復元という難しい注文もついており、文化財調査官たちの応答は悪く、婉曲に拒絶反応を示すほどであった。

しかし、陳情を繰り返す内に、昭和60年に視察・調査にあたった斎藤文化財調査官の好意的な見解の如く、調査官たちの応答にも好意的な反応が窺えるようになった。そして、調査官から「門司港地区を伝統的建造物保存地区にだって指定が可能だ」という言葉を引出した。しかし、すべての歴史的建造物について包括的に準備するだけの時間的余裕がなく、取り敢えず商船三井ピル旧門司税関の保存についての計画を示して、文化財保護に対する市の強い姿勢を披涯した。文化庁もこれを受け入れて、平成元年7月下旬宮澤主任調査官による旧門司三井倶楽部の実地調査が行われた。
▼ 国の重要文化財に指定される
富澤主任調査官の調査結果に基づき、文化庁は門司港地区の主要な歴史的建造物の保存計画を確認し、国の重要文化財候補に挙げる姿勢を示した。また末吉市長は移転にともなう用地取得計画と保存活用計画を基に、平成元年10月、門鉄会館を旧門司三井倶楽部として保存することを最終的に決定した。
年末には、宮澤主任調査官の随行で、文化財保護審議会の部会長と委員が現地視察に訪れ、建物の基礎工法等を確認した。そして、平成2年2月、文化財保護審議会は、旧門司三井倶楽部の重文指定を文部大臣に答申した。そして、3月19日、晴れて国の重要文化財に指定された。本件の指定は、市教委・文化課の柏木氏の協力に依るところが大きく、陳情の過程で柏木氏と調査官との良好な人間関係が採択にも大きく投影したと言われている。

また、文化課の柏木氏は、旧門司三井倶楽部の設計者は松田昌平と推測していたが、解体工事中に、1階会議室の電気プラケットの下地板に「 松田出張所」なる文字の墨書が見つかり、他にも松田昌平設計の根拠を示す墨書などが見つかった。
▼ 移築・復元・保存の完成
その後、「門鉄会館」は北九州市に無償譲渡され、昭和63年12月23日、自治省採択の「門司港レトロめぐり海峡めぐり推進事業」によって、この建築物を門司港駅前に移築保存活用することが可能となり、平成2年7月より解体工事平成3年3月より移築工事が開始された。その間、平成2年3月には、国の重要文化財に指定された。しかし、後述の如く、「国鉄九州総局長公舎」は、昭和60年10月に解体となる。平成6年(1994年)12月移築・復元・保存の完成平成19年(2007年)11月30日には、近代化産業遺産(北九州炭鉱 - 筑豊炭田からの石炭輸送・貿易関連遺産)に認定された。

第一船溜まりから見たレトロ群

第一船溜まりから見たレトロ建造物群
対岸前景中央左より旧三井倶楽部、旧大阪商船ビル、右端は旧門司港ホテル、
後景左より旧三井物産ビル、旧日本郵船ビル
▼ 館内施設
現在の旧門司三井倶楽部は、レストラン、集会場、演奏会場など、市民の憩いの施設として再生・活用されている。そのため、空調設備や複数のトイレ、防火構造の厨房など、活用のための設備が追設されている。2階には、大正11年、アインシュタイン(1879〜1955年)夫妻が全国各地で講演する為に来日した際、最後の福岡での講演のため、わざわざ門司の三井倶楽部に宿泊したという寝室、居間が、当時の内装のまま「アインシュタインメモリアルルーム」として復原保存され、公開されている。
また、同じ2階に、大ベストセラーとなった著書「放浪記」で有名な門司区小森江出身の女流作家・林芙美子(1903〜1951年)の記念館が林芙美子資料室として公開され、自筆原稿やパリの滞在日記、従軍手帳、絵画、書など約150点が展示されている。
1階には、門司港を代表するふぐ料理店が経営するレストラン「三井倶楽部」があり、格調高いインテリアの店内でふぐのフルコースや和洋折衷の会席料理、ご当地グルメの焼カレーやハヤシライスなどが味わえる。
<資料:中学同窓・稲佐重正君提供>
<写真:中学同窓・田中文君撮影>
参考資料:1.ルネッサンスの知恵 第3号 門司港レトロヘの道すじ 財団法人北九州都市協会(平成14年2月)、2.北九州市新・新中期計画 北九州市(昭和55年4月)、3.ポート門司 21 北九州市職員研修所(昭和57年)

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