
18代目・磯右衛門(曾祖父):明治維新にて姓を益田に改変
明治維新の「屋号廃止令」や「国名・旧官名使用禁止令」を契機に、姓名を改変
▼ 佐々木京極家より18代目となる磯右衛門(曾祖父):明治維新の「屋号廃止令」や「名前の国名(加賀守など)・旧官名(衛門、兵衛など)使用禁止令」を契機に、13代目の高重長右衛門より引き継いだ別称の屋号「益田屋」を廃し、先祖地縁の地名に因んで、姓を「益田」と改変した
佐々木京極家より18代目となる磯右衛門(曾祖父)は、明治維新における「屋号廃止令」や「名前の国名(加賀守など)・旧官名(衛門、兵衛など)使用禁止令」を契機に、13代目の高重長右衛門より引き継いだ別称の屋号「益田屋」を廃し、先祖地縁の地名(すなわち、高重長右衛門の生誕地&その父・高福長右衛門の任領地、また先祖・京極家の領国の1つでもある石見国・益田郡の地名)に因んで、姓を「益田」と改変した。
嘉永3年生、明治37年9月1日卒(光顔院釋照淳心位居士)(享年55歳)
嘉永3年生、明治37年9月1日卒(光顔院釋照淳心位居士)(享年55歳)






佐々木京極家より13代目となる高重長右衛門:江戸時代初期・元禄3年(1690年)、山縣郡八重村龍ヶ谷の城主。木次村に転住し、元禄10年まで住む。同年、息子3人を召し連れて高田郡志路村字桐山に転住する。菩提寺:専念寺(戒名:照徳院釋源敦實胤正不世居士)
■ 屋号、家号(やごう)とは
屋号、家号(やごう)とは、主にヨーロッパ、日本において使用され、ヨーロッパにおいては主に貴族、日本においては源、平、藤原、橘などの「姓を持つ氏族」の家系の間で使われ、一門・一家一氏族の系統や特徴を基に家に付けられた称号である。
ヨーロッパでは、der Geschäftsnameという。ドイツ語圏においては、"Zum Goldenen Schwan"(金の白鳥亭)や "Weisser Hirsch"(白い鹿亭)、さらにドイツ語圏のオーストリアのザルツブルクでは"Weisse Rossl"(白馬亭)、インスブルックでは“Goldener Adler”(金の鷲)といったものが有名である。
日本においては、江戸時代に入り、徳川政権下では、幕府により苗字帯刀を許された(「苗字御免」「苗字帯刀御免」の)武士や有力な庄屋、名主以外の者が苗字を公的に名乗ることが出来なくなったことや、源、平、藤原、橘などの氏族の「本姓」(ほんせい)を名字(なあざな)として使用しづらくなったことを背景に、「本姓」を持つ氏族の一部の間で、ヨーロッパにおける貴族の如く、一門・一家・一氏族の系統を示す「称号」の代替(別称)として、「屋号」を用いることが注目され始めた。
当初は、その使用は、源、平、藤原、橘などの「本姓」を持つ氏族の一部に限られていたが、江戸時代中期になると、一門・一家・一氏族の系統を示す「称号」としての「屋号」だけでなく、次第に富農や大商人の家系の継続や家格を示す称号としても使用が許され始め、江戸時代後期では、格式のある商人(あきんど)の世界で、その利用が拡大した。
(しかし、明治維新における「屋号廃止令」以後は、周知の如く、単なる商売人の商業上の名前(商店名)として、看板替わりに「屋号」が使われている)。
屋号、家号(やごう)とは、主にヨーロッパ、日本において使用され、ヨーロッパにおいては主に貴族、日本においては源、平、藤原、橘などの「姓を持つ氏族」の家系の間で使われ、一門・一家一氏族の系統や特徴を基に家に付けられた称号である。
ヨーロッパでは、der Geschäftsnameという。ドイツ語圏においては、"Zum Goldenen Schwan"(金の白鳥亭)や "Weisser Hirsch"(白い鹿亭)、さらにドイツ語圏のオーストリアのザルツブルクでは"Weisse Rossl"(白馬亭)、インスブルックでは“Goldener Adler”(金の鷲)といったものが有名である。
日本においては、江戸時代に入り、徳川政権下では、幕府により苗字帯刀を許された(「苗字御免」「苗字帯刀御免」の)武士や有力な庄屋、名主以外の者が苗字を公的に名乗ることが出来なくなったことや、源、平、藤原、橘などの氏族の「本姓」(ほんせい)を名字(なあざな)として使用しづらくなったことを背景に、「本姓」を持つ氏族の一部の間で、ヨーロッパにおける貴族の如く、一門・一家・一氏族の系統を示す「称号」の代替(別称)として、「屋号」を用いることが注目され始めた。
当初は、その使用は、源、平、藤原、橘などの「本姓」を持つ氏族の一部に限られていたが、江戸時代中期になると、一門・一家・一氏族の系統を示す「称号」としての「屋号」だけでなく、次第に富農や大商人の家系の継続や家格を示す称号としても使用が許され始め、江戸時代後期では、格式のある商人(あきんど)の世界で、その利用が拡大した。
(しかし、明治維新における「屋号廃止令」以後は、周知の如く、単なる商売人の商業上の名前(商店名)として、看板替わりに「屋号」が使われている)。
明治維新時の背景
■ 「平民苗字必称義務令」に伴う「屋号使用禁止令」
江戸時代、苗字を公(六年に一度編纂される宗門人別改帳=今日の戸籍や年貢納付などの公文書)に名乗れるのは「苗字御免」「苗字帯刀御免」の人だけであったが、明治維新により政府は平民に苗字の使用を許し、明治3年9月19日に「平民苗字許可令」、その翌年に「姓戸(セイシ)不称令」、そして明治5年には明治初の近代的戸籍である【壬申戸籍:じんこんこせき】を作った。
しかし、課税敬遠等で実行が徹底されなかったため、明治8年2月13日に「平民苗字必称義務令」を罰則付きで発令している。この時、付随して、「屋号をそのまま名字に使うことが禁止された」。江戸時代の宗門人別改帳や壬申戸籍の原簿は、村を仕切っていた有力者や神社、お寺で管理されて作られており、お寺の寄進帳(寄付者の名簿)や過去帳(檀家が代々記してある)などで名字を調べることが出来る。
ちなみに、本姓は江戸時代においてはほとんど使われておらず、武家の場合、源、平、藤原、橘などの氏族の本姓(ほんせい)を名字(なあざな)とすることはなかった。(しかし、一部の当該家系とは無縁の者が勝手に使用したという勇気ある事例もあるという)
江戸時代、苗字を公(六年に一度編纂される宗門人別改帳=今日の戸籍や年貢納付などの公文書)に名乗れるのは「苗字御免」「苗字帯刀御免」の人だけであったが、明治維新により政府は平民に苗字の使用を許し、明治3年9月19日に「平民苗字許可令」、その翌年に「姓戸(セイシ)不称令」、そして明治5年には明治初の近代的戸籍である【壬申戸籍:じんこんこせき】を作った。
しかし、課税敬遠等で実行が徹底されなかったため、明治8年2月13日に「平民苗字必称義務令」を罰則付きで発令している。この時、付随して、「屋号をそのまま名字に使うことが禁止された」。江戸時代の宗門人別改帳や壬申戸籍の原簿は、村を仕切っていた有力者や神社、お寺で管理されて作られており、お寺の寄進帳(寄付者の名簿)や過去帳(檀家が代々記してある)などで名字を調べることが出来る。
ちなみに、本姓は江戸時代においてはほとんど使われておらず、武家の場合、源、平、藤原、橘などの氏族の本姓(ほんせい)を名字(なあざな)とすることはなかった。(しかし、一部の当該家系とは無縁の者が勝手に使用したという勇気ある事例もあるという)
■ 「国名・旧官名使用禁止令」
明治3(1870)年11月19日: 名前に、国名(京極九郎加賀守や京極高忠多賀豊後守など)・旧官名(長右衛門、磯右衛門など衛門、兵衛)の使用禁止令が太政官布告(第845号)として発令された。この使用禁止令により、一般に国名・旧官名を通称として使用することが禁止された。例えば、この旧官名禁止令により『〜左衛門』、『〜右衛門』、『〜兵衛』、『〜太夫』、『〜介』、『〜助』、『〜輔』、『〜丞』、『〜佑』、『〜佐』などの名前を通称名(仮名)として使用することが禁止された。
江戸時代の武士は、公的な本名である「諱(いみな)」とは別に、日常的に呼称される「通称」を持っていたが、江戸時代以前より、実名(諱/いみな)を直接呼ぶこと(あるいは、主君や目上の者以外から本名(諱)で呼ばれること)を避ける習慣があったため、日常的には(日常生活や一般的な文書では)「長右衛門」のような「通称」が用いられていた。
したがって、記録によってはこの通称のみが残っているケースも多く見られるが、正式な文書や儀礼で使われる本名(諱)は別に存在したはずである。
明治3(1870)年11月19日: 名前に、国名(京極九郎加賀守や京極高忠多賀豊後守など)・旧官名(長右衛門、磯右衛門など衛門、兵衛)の使用禁止令が太政官布告(第845号)として発令された。この使用禁止令により、一般に国名・旧官名を通称として使用することが禁止された。例えば、この旧官名禁止令により『〜左衛門』、『〜右衛門』、『〜兵衛』、『〜太夫』、『〜介』、『〜助』、『〜輔』、『〜丞』、『〜佑』、『〜佐』などの名前を通称名(仮名)として使用することが禁止された。
江戸時代の武士は、公的な本名である「諱(いみな)」とは別に、日常的に呼称される「通称」を持っていたが、江戸時代以前より、実名(諱/いみな)を直接呼ぶこと(あるいは、主君や目上の者以外から本名(諱)で呼ばれること)を避ける習慣があったため、日常的には(日常生活や一般的な文書では)「長右衛門」のような「通称」が用いられていた。
したがって、記録によってはこの通称のみが残っているケースも多く見られるが、正式な文書や儀礼で使われる本名(諱)は別に存在したはずである。
参考:13代目・高重が、別称として「屋号」を使い始めた経緯(元禄15年)
▼ 佐々木京極家より13代目となる高重長右衛門:江戸時代となり、徳川政権下では、氏族の「本姓」を名字として使用しづらくなったため、元禄15年、門・家・氏族の系統を示す「称号」の代替(別称)として、「屋号」を使い始めた。
江戸時代に入り、徳川政権下では、源、平、藤原、橘などの氏族の本姓(ほんせい)を名字(なあざな)として使用しづらくなったため、「本姓」を持つ氏族の一部の間で、ヨーロッパにおける貴族の如く、一門・一家・一氏族の系統を示す「称号」の代替(別称)として、「屋号」を用いることが注目され始めた。
わが家系では、江戸時代に入り、元禄15年、佐々木京極家より13代目となる高重長右衛門が、一家・一氏族の系統を示す「称号」の代替(別称)として、「屋号」を使い始め、自らの屋号を先祖地縁の地名(すなわち、高重長右衛門の生誕地&父・高福長右衛門の任領地、また先祖・京極家の領国の1つでもある石見国・益田郡の地名)に因んで、益田屋と称した。そして、家系の継続や家格を示す称号として、高重の3人の息子:嫡子・半左衛門、二男・長左衛門、三男・徳右衛門にそれぞれに林屋、佐々木屋、亀井屋の屋号を与え、別家させた。
ちなみに、屋号、家号(やごう)とは、ヨーロッパにおいては主に貴族、日本においては「姓を持つ氏族」の家系にも使われ、一家族、一氏族の系統を示す称号として用いられた。
わが家系では、江戸時代に入り、元禄15年、佐々木京極家より13代目となる高重長右衛門が、一家・一氏族の系統を示す「称号」の代替(別称)として、「屋号」を使い始め、自らの屋号を先祖地縁の地名(すなわち、高重長右衛門の生誕地&父・高福長右衛門の任領地、また先祖・京極家の領国の1つでもある石見国・益田郡の地名)に因んで、益田屋と称した。そして、家系の継続や家格を示す称号として、高重の3人の息子:嫡子・半左衛門、二男・長左衛門、三男・徳右衛門にそれぞれに林屋、佐々木屋、亀井屋の屋号を与え、別家させた。
ちなみに、屋号、家号(やごう)とは、ヨーロッパにおいては主に貴族、日本においては「姓を持つ氏族」の家系にも使われ、一家族、一氏族の系統を示す称号として用いられた。






