「宮田學先生を偲んで」|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

「生命と微量元素」講座

「宮田學先生を偲んで」

In memory of Dr Manabu Miyata

心より先生の冥福を祈ります。  荒川 泰昭

先生の訃報を知り、驚いています。残念です。執筆没頭などのため、数か月、メールも開けず、訃報を知るのが遅れてしまいました。

先生との初対面は、2005年に京都で主催の学術集会の終了後でした。「この後、時間が取れますでしょうか」と仲介の方が来られ、京都・祇園で食事を一緒にした時でした。

話の内容は、国際会議や国内会議など、各種の学会、研究会を立ち上げ、創設や運営などに少なからず関わって来ました私の経験を評価してくれ、「学術集会の設立や運営のノウハウ」について「相談や指導をお願い出来ないか」ということでした。

その後も、私が出席する各種の学会会場に足繁く訪ねて来たり、私が入院した際には、遠路、東京の虎の門病院まで見舞いに来てくれたり、先生の熱意は半端ではありませんでした。

宮田先生の意向は、「亜鉛治療の重要性」を謳い、臨床分野への啓蒙・教育を目指す「共に勉強し議論し合える会」を作りたいということでした。

当時、私は「日本微量元素学会」の理事長をしており、現状を鑑み、「亜鉛など微量元素の臨床面での重要性を、臨床医の正しい知見・知識の理解と意識や認識の変容、そして態度の変容、行動の変容の実践を含めて、啓蒙ならびに教育していかなければならない」と、その必要性を声高に提唱していた時でもありました。

そして、臨床医の会員の活力が減少傾向にあることを鑑み、本学会の学会名は元々「バイオメディカル」を趣旨とした「日本微量元素医学会」でスタートしたものであり、医学系主導でなければならない/が望ましい、と会員の認識を新たにさせた時期でもありました。

従って、「亜鉛治療の重要性」を謳い、臨床分野への啓蒙・教育を熱望する宮田先生の意向は、大いに賛同できるところでしたが、1つ大きな問題がありました。それは、将来的な懸念として、3〜4つの小学会を統合して創設した「日本微量元素学会」を、また統合以前の分化会へ逆行(逆戻り)させることになりはしないかというジレンマでした。

二者択一の決断でしたが、当時の現状(臨床面での臨床医の意識・関心や認識の低さなど)では、実地医療現場に如何に広報・普及・周知させるかが最も重要であり、急務であることは明白でした。

そこで、形骸化され、活性低下した大規模学会での「広域での遠吠え」よりは、小さな研究会ながらも痒い所に手が届き、底辺から地道に発信できる会の方が、即効性、実効性があり、無関心の目を開かせ、裾野を広げていくには、逆に近道かも知れないと、また本道が渋滞の場合の側道の有用性/有効性も有りかと考え、宮田先生の意向を協力/応援することにしました。

それから、「亜鉛の会」を設立(2010年4月1日)する3〜4年前ごろからでしょうか、東京(銀座)や京都(祇園)で、毎年のように、2人だけの「逢引ならぬ会合」を持ち、幅広く構想や対策を練っておりました。

最初は、「手弁当」でも立ち上げようと「質素な会」からのスタートを画策しておりましたが、2008年頃でしょうか、先生が東京(銀座)での「会合」の折、「スポンサーが付いてくれそうだ」とニコニコ顔で興奮気味でやって来たことを思い出します。そして、以後、温めて来た構想も一挙に具体化することができました。

宮田先生の熱意が呼び寄せるが如く、株式会社シノテスト様や発足人の先生方の協力も得られ、2010年4月1日に、「近畿亜鉛栄養治療研究会」として設立される運びとなった次第です。

(ただし、本研究会の趣旨は、臨床面での現状打破のために、多くの臨床医の参加を求め、臨床医を中心に、実地医療現場の臨床医の意識・関心や認識の低さに対する啓蒙ならびに教育を目的とするものでした。) 

宮田先生は、人生を楽しむ術(すべ)を多く持っており、当時はシャンソンやジャズを愛好し、修行中だと言っておりましたが、毎年本研究会に出席の前日は、京都・祇園にあるピアノヴォーカルラウンジ(サントロペ―)に誘われ、談話やカラオケで、京都の夜を楽しむのが常でした。そして、気が付けば、私自身も10年来の馴染み客になっておりました。

私より少し早く旅立たれましたが、来世でも、巡り会うことができた折には、先生の好きな「シャンソンやジャズ」を聞きながら、「亜鉛」を酒の肴(さかな)に、2人でゆったりと談話や酒を楽しみたいものです。

心より先生の冥福を祈ります。  荒川 泰昭

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