先祖の足跡を訪ねて −源義朝(佐々木秀義と猶子兄弟&義兄弟)を祀る大御堂寺・野間大坊(愛知・知多)−|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

「生命と微量元素」講座

先祖の足跡を訪ねて

源義朝(佐々木秀義と義兄弟)を祀る大御堂寺(野間大坊)

猶子兄弟&義兄弟の源義朝と佐々木秀義:共に保元・平治を戦う

名古屋大学(医学)での学会の帰途、大御堂寺(野間大坊)を訪問した。ご住職(水野家15代・家康の母方(水野家)の従兄弟・守信を祖とする)のご厚意で、護摩祈祷をしていただいた後、本寺社客殿に伝わる源義朝の「絹本著色義朝最期図」や「絹本著色義朝最先考供養図(狩野探幽作、国重要文化財)、頼朝自身の守り本尊である念持仏(開運延命地蔵菩薩像)と不動明王・毘沙門天、そして住職ご子息(水野家16代)の案内で、大御堂寺・本堂の本尊である阿弥陀三尊像(快慶作、県重要文化財)、昭和天皇即位時の京都御所建物を移築した悠紀殿の本尊である頼朝ゆかりの大日如来像源義朝御廟、父・義朝の法要のため、頼朝により様々な伽藍と共に創建された大門などを拝覧させていただいた。 2018年7月8日 先祖の導きか、降雨予想を覆し晴天。

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

■ 猶子兄弟&義兄弟の源義朝と佐々木秀義:共に保元・平治を戦う
▼ 源義朝と佐々木秀義にみる清和源氏と宇多源氏の血縁
佐々木秀義にとって、宇多源氏(始祖:敦實親王&源雅信)の嫡流・源成頼は高祖父、佐々木義経(佐々木氏・祖)は曾祖父、佐々木経方は祖父、佐々木季定は父、佐々木定綱は長男、清和源氏(始祖:源経基)の嫡流・源義家は曾祖父、源義親は祖父、源為義は猶父&義父、源義朝は猶子兄弟&義兄弟、そして源頼朝源義経は甥御である。また、付け加えれば、秀義の妻は源為朝の娘であり、秀義の息子・佐々木定綱と義朝の息子・源頼朝や源義経は従兄弟どうしである。
▼ 源義朝
源義朝(1123-1160年)は、平安時代末期の武将。清和天皇の皇子を祖とする清和源氏為義流の嫡流:河内源氏の当主。別名:上総曹司、左典厩、下野守、頭殿、大僕卿。従四位下、左馬頭、下野守、播磨守、贈・正二位内大臣。戒名:勝定寿院。享年38歳。源氏の棟梁・源為義 (1096-1156、贈・内大臣義法大居士六條判官為義公尊儀) の長男。兄弟に義賢、為朝など。祖祖父は「前九年の役」や「後三年の役」で武勇の士として有名な源「八幡太郎義家、祖父は源義親。母は白河院の近臣で淡路守・藤原忠清の娘。正室は藤原季範熱田大宮司家)娘(由良御前)、側室:常盤御前、三浦義明娘、波多野義通妹、青墓長者娘・大炊(延壽)など。源義平、源朝長、源頼朝・源義経、阿野全成らの父。

白川院政の時代、崇徳天皇が即位した年・保安4年(1123年)に源為義の長男として生まれるが、祖祖父・源義家の死後、河内源氏は一族内紛により、また父・為義も家族内の失態で白河院の信頼を失い、官位は低迷し、都での地位を凋落させていた。こうした時勢の中、義朝は少年期に都から東国へ下向し、上総氏、安西氏、三浦氏など在地豪族の庇護・後見を受け、父とは別に東国を根拠地に独自に勢力をのばし、三浦義明、大庭景義ら有力な在地の大豪族を傘下に収めた。そして、長男・義平の母は三浦氏娘、次男・朝長の母は波多野氏娘など、在地豪族と婚姻関係を結んだ。河内源氏の主要基盤が東国となったのはこの義朝の代であり、高祖父の源頼義以来ゆかりのある鎌倉の亀ヶ谷に館を構え(亀谷殿)、特に相模国一帯に強い基盤を持った。義朝は20代前半で南関東の武士団を統率する地位を確立し、その活躍が都にも知られるようになった事で、中央進出への足掛かりを掴んだ。そして、再び都へ戻った義朝は、久安3年(1147年)に正室で熱田大宮司の娘・由良御前との間に嫡男(3男)の頼朝をもうける。院近臣である妻の実家の後ろ楯を得て、鳥羽院や藤原忠通にも接近し、仁平3年(1153年)、31歳で従五位下・下野守に任じられ、翌年には右馬助を兼ねた。

保元元年(1156年)鳥羽法皇死後の皇位継承争いから、崇徳上皇後白河天皇が対立し、さらに摂関家(藤原氏)内部の権力争いから左大臣頼長が上皇と関白忠通が天皇と結びついて、それぞれ配下の武士を召集したことから「保元の乱」が起こる。主君に仕える武将の宿命か、父・為義は、主君・頼長の召集に応じて子の頼賢、為朝ら一族を率いて崇徳上皇方につき、東国に基盤を持つ長男・源義朝や近江の婿養子・佐々木秀義後白河天皇方につき平清盛らと共に親子兄弟で戦うことになる。
戦果は、東国武士団を率いて戦功を挙げた義朝の後白河天皇方の勝利となり、崇徳上皇方の主力として戦った父・為義は敗北し、東国へ落ち延びんとするも、結局、息子・義朝のもとに降伏。出家する。後白川院の勅に対して、息子の義朝は自らの戦功に代えて、父・為義と弟たちの助命を願うが許されず、保元2年7月30日に息子・義朝により(実際は配下の鎌田兵衛政清に申つけて)斬首されることになる。義朝は、逆に保元の乱での戦功により左馬頭に任じられて名を挙げる。

しかし、3年後の平治元年(1159年)の平治の乱は、当初は後白河院政派二条天皇親政派との対立に加え、両派に跨る信西憎しの反信西集団が絡んでの対立が原因で勃発した。義朝は後白河院に信任厚い三条殿の信西の討伐を標的として源光保・源季実・源重成らと共に藤原信頼方に与して戦ったが、信西討伐が成就した後は藤原信頼二条天皇親政派との反目となる。二条天皇親政派らの謀略で、二条天皇が平清盛六波羅邸に脱出し、後白河上皇も仁和寺に脱出したため、清盛が官軍の地位を得、一転賊軍となった藤原信頼・源義朝が討伐の対象となる。12月27日、京中で戦闘が開始されるが、平家らの官軍多数で義朝軍壊滅する。

義朝に与し義朝の嫡子である源義平(鎌倉悪源太、源頼朝・義経らの異母兄)とともに戦った猶子兄弟&義兄弟の宇多源氏の当主・佐々木秀義は、後述のように、子の定綱、経高、盛綱(このとき、高綱は幼少だったため、京都にいる叔母のもとに残した)を連れて伯母の夫である藤原基衡(奥州の覇者・秀衡の父)を頼って奥州へ落ち延びようとしたが、途中、秀義の武勇に惚れ込んでいた桓武平氏の一族で武蔵国から相模国に至る領地を有した渋谷重国に引き留められ、その庇護を受ける。この地で20年を過ごし、渋谷重国の娘を娶り五男の義清をもうける。子息たちも宇都宮朝綱・渋谷重国・大庭景親など豪族級東国武士の娘婿になった。そして、秀義は、乱後に伊豆国へ流罪となった義朝の嫡子・源頼朝の元へ4人の息子・定綱、経高、盛綱、高綱を向かわせる(後述)。

一方、平清盛に敗れた義朝は、息子の義平・朝長・頼朝、一族の源義隆(陸奥六郎義隆)・平賀義信・源重成(佐渡重成)、家臣で乳兄弟の鎌田政清・斎藤実盛・渋谷金王丸らを伴い東国で勢力挽回を図るべく東海道を下るが、その途上度重なる落武者狩りの追討隊との戦闘で、朝長・義隆・重成は深手を負い、命を落とした。また頼朝も一行からはぐれて捕らえられ、義平は別行動で北陸または東山道を目指して一旦離脱するが再び京に戻って潜伏し、生き残っていた義朝の郎党・志内景澄と共に清盛暗殺を試みるが失敗する。

義朝は東国へ逃れる途中、尾張国野間に立ち寄り、乳兄弟と呼ばれた郎党の鎌田政家(政長・政清)の舅で相伝の家来であった長田忠致とその子・景致のもとに身を寄せるが、平家からの恩賞目当ての長田父子に裏切られ、『平治物語』では、湯殿(野間駅の東にある法山寺にあったとされる)に誘われ、入浴中に襲撃を受けて殺害されたとされる。1160年(平治2年)正月3日 享年38歳。政清も酒を呑まされ殺害された。京を脱出して3日後の事であった。また、『愚管抄』によれば長田父子の陰謀を察知した義朝が政清に自らの首を打つよう命じ、斬首したのちに政清は自害したとされる。しかし、ご住職よりご恵贈いただいた「大御堂沿革略記」の源義朝公御最期之御繪解では、「翌朝3日、義朝公を御湯殿に請じ、御湯を召させ奉る。長田かねて討つ謀みが故、御浴衣などをわざと置かず、不束にしておく、義朝公は金王丸を呼ぶが辺りに居ないため、義朝公大いに立腹し、長田の館へ取りに参りたる跡へ、潜伏者が躍り出て義朝公へ組付きぬ、先最初に出でたるは美濃尾張両国にて名を得たる無双の大力・橘七郎と申す者、ツト出でて義朝公へ組付きぬ、義朝公勝って御勇力に御座れば苦も無く取って御膝の下へ敷きなされけれども、続いて出でたる弥七兵衛、浜田三郎両人左右より取掛り難なく御首をかき取り相図の者に渡して御座る。(この時、義朝公御年三十八歳、鎌田も同年)」とある。


武将の宿命ではあるが、義朝は父や弟たちを滅ぼし、河内源氏嫡流を確立してからわずか3年で死を迎えることになる。しかし、義朝が東国に築いた地盤と嫡子頼朝に与えた高い身分は、後の頼朝による挙兵の成功、ひいては鎌倉幕府成立への礎となっていく。
▼ 佐々木秀義
佐々木秀義 (1112-1184年) は、平安時代末期の武将。宇多天皇の皇子を祖とする宇多源氏嫡流:近江源氏、佐々木源氏の当主。諱は秀義。源三と称す。贈・近江権守。法号は長命寺殿。享年73歳。宇多天皇玄孫・源成頼の嫡男である佐々木氏の祖・源章経(佐々木義経)の孫。13歳の時、清和源氏の嫡流:源為義の養子となり、為義の娘を娶る。源頼朝の父・義朝とは養子兄弟&義兄弟ということになる。伯母は奥州の覇者・藤原秀衡の父・藤原基衡の妻である。子には、嫡子長男・定綱、次男・経高、三男・盛綱、四男・高綱、五男・義清などがいる。

保元元年(1156年)に崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱で、秀義は天皇方の源義朝に与して戦うことになり、勝利するが、義朝に与し義朝の嫡子である源義平(鎌倉悪源太、源頼朝・義経らの異母兄)とともに戦った平治元年(1159年)の平治の乱では、義朝方は敗れる。秀義は、子の定綱、経高、盛綱(このとき、高綱は幼少だったため、京都にいる叔母のもとに残した)を連れて伯母の夫である藤原基衡奥州の覇者・秀衡の父)を頼って奥州へ落ち延びようとしたが、途中、秀義の武勇に惚れ込んでいた桓武平氏の一族で武蔵国から相模国に至る領地を有した渋谷重国に引き留められ、その庇護を受ける。この地で20年を過ごし、渋谷重国の娘を娶り五男の義清をもうける。子息たちも宇都宮朝綱・渋谷重国・大庭景親など豪族級東国武士の娘を娶った。

そして、乱後に伊豆国へ流罪となっていた義朝の嫡子・源頼朝が平氏打倒を決意した時、秀義は相模国渋谷荘(神奈川県藤沢・大和・綾瀬市近辺)に滞在しており、嫡子・定綱は下野国宇都宮に客居していたが、平家の家人大庭景親から頼朝討伐の密事を聞き、子の定綱を使いに出して頼朝に危急を知らせる。そして、頼朝にとっては従兄弟でもある息子の定綱、経高、盛綱、高綱の四兄弟を助勢に向かわせたのである。

治承4年(1180年)、伊豆に配流の源頼朝が以仁(もちひと)王の命を受けて平家討伐の兵を挙げると、定綱はじめ息子四兄弟の経高、盛綱、高綱は共に頼朝を助勢し、治承4年(1180)8月17日、最初の攻撃目標として、伊豆国の目代(源氏の見張り役とされる山木判官代)である平(山木)兼隆の山木館を襲い、兼隆を討ちとり、源氏再興の狼煙を挙げた。

しかし、同年8月、頼朝に与して相模国へと進軍するが、石橋山の戦いで敗れる。この石橋山の戦いでは、定綱ら四兄弟は、敵軍・大庭景親の軍勢により絶体絶命の窮地にあった頼朝の命を助けている。一旦安房国へ逃れた頼朝は、10月20日の富士川の戦いで平氏を破る。平氏軍は戦闘を交えることなく都に撤退してしまう。そこで、上総広常らの薦めで、同年10月、京都で平氏に与する佐竹隆義および子・佐竹秀義(清和源氏。常陸国佐竹郷を本拠とする国司級の武士団の惣領)を攻略し、壊滅させる。

ちなみに、石橋山の合戦では、佐々木秀義渋谷重国の恩に報いるため、五男義清とともに平氏方の大庭景親軍に参陣している。しかし、その後は養和元年(1181年)11月5日、頼朝軍の遠江出陣を制止するなど、源氏長老として重きをなしている。挙兵後に行われた初の論功行賞では、秀義は平家討伐の挙兵前後における助勢など、種々の功により、石橋山の戦いで平氏方の大庭景親軍に義理で参陣したことも許され、旧領の佐々木庄を安堵され、本領・佐々木荘へと戻る。嫡子・定綱は度重なる軍功により、本領・佐々木荘の地頭に補任され、ついで近江の守護(総追捕使)となる。『吾妻鏡』(文治三年(1187年)二月九日の条)にも、近江国の「守護定綱」とある。

この後、近江守護となった嫡子・定綱は、その後も頼朝軍と共に鎌倉に本拠を構え、多くの戦いを経て文治元年(1185年)3月に壇ノ浦の戦いで平氏一門を滅ぼした。すなわち、頼朝義仲を滅ぼして源氏の棟梁としての主導権を獲得し、平氏追討の宣旨を得て、義経・範ョ軍が寿永3年/治承8年2月7日(1184年3月20日)一の谷(兵庫県神戸市)で平氏を破り、さらに翌文治元年(1185年)2月に屋島(香川県高松市)を奇襲、3月には壇の浦(山口県下関市)の海戦で平氏一門を滅ぼした。定綱はこの過程で、戦功を挙げ続け、近江だけでなく、長門、石見、隠岐の守護へと補任される。そして、定綱を含む秀義五人の息子は、源平の争乱における度重なる軍功により、十七国の守護職に補任された。

一の谷の合戦後、佐々木秀義は近江国に戻って地盤を固めていたが、元暦元年(1184年)7月、伊賀国で平氏家人平田家継が、伊勢国では伊勢平氏の和泉守平信兼が蜂起し、鈴鹿山を占拠して交通を庶断する事件(伊勢・伊賀平氏の挙兵)が起こる。家継らが近江をぬけて京都を狙う気配を察した秀義は、有力な息子たちが不在の中で、老体ながら五男・義清と共に、直ちに出陣して、甲賀郡大原庄で、一騎責戦、平氏勢を撃退している。平信兼らは鈴鹿山中に敗走したが、平氏方は平田家継以下90余人が討たれ、秀義本人も敵の矢に当たって戦死した(吾妻鏡)。享年73歳。死後、これまでの功績により近江権守を贈られる(『源平盛衰記』第41)。この権守の官位は、近江のような大国では、当時は公卿(大納言・三位以上)の高位の者でないと授からない名誉ある官位であり、また当時の鎌倉幕府内では、受領に補任される者は源氏一門に限られていた。法号は長命寺殿

大御堂寺・野間大坊

ご住職よりご恵贈いただいた「大御堂寺沿革略記」(野間大坊発行)
■ 大御堂寺(野間大坊)
大御堂寺は、愛知県知多郡美浜町にある真言宗豊山派の寺院。本尊は阿弥陀如来。山号は鶴林山。詳しくは鶴林山無量寿院大御堂寺と称し、俗に野間大坊といわれる。歴史は古く、『大御堂寺縁起』には、天武天皇(673〜686)の時代に役小角により『阿弥陀寺』として建立され、聖武天皇の時代に行基により中興され、その後、弘法大師(空海)が全国行脚の際、この地で一千座の護摩を焚き、庶民の幸福を祈ったと伝えられている。そして寺伝の勧進帳縁起によると、承歴年間(1077〜1081)に白河天皇の皇室繁栄を祈願する寺(勅願寺)として、『大御堂寺』と称せられたという。

また、この寺所は平治の乱で敗れた源義朝終焉の地とされ、境内には、義朝の墓のほか、本堂、客殿、鐘楼、大門、塔頭などがあり、中世寺院の伽藍の姿をよく残し、県の史跡となっている。すなわち、『吾妻鏡』建久元年10月25日(1190年11月24日)条には、源頼朝が上洛の途上に野間庄にある父・義朝の墓に詣でたことが記されている。また、寺伝では頼朝は天下統一の後、この地で謀殺された父・源義朝(絹本著色義朝最期図を参照)の菩提のため当山へ七堂伽藍を再建した。本堂、講堂、食堂、経堂、開山堂、鐘楼堂、浴室堂、五重塔、大門など全てを造営成就させ、父・源義朝の御廟所のほか、家臣蒲田政清夫妻ならびに寺を整備した平康頼の墳墓、池の禪尼の経塚までも建築した。そして、建久元年10月上洛の途次に当山へ廟参し、頼朝自身の守り本尊である念持仏(開運延命地蔵菩薩像)と不動明王・毘沙門天を安置し、大法会絹本著色義朝最先考供養図を参照)を行ったという。また後の時代でも、豊臣や徳川の庇護も厚く、各時代で発展・繁栄し、御本尊が源頼朝の願いを叶えたことから、祈願成就・開運の寺として、また尾張地方屈指の護摩祈祷の寺として信仰を集めている。

大御堂寺・野間大坊

▼ 野間大坊 客殿
客殿は、豊臣秀吉公の晩年の居城『伏見桃山城』の一部を寛永年間(1624〜43)に移築したもの。入母屋造の銅板葺で、平面は中世の禅宗方丈に近い形式をとる。江戸時代初期の建立で、客殿建築として希少価値の高い建物である。愛知県重要文化財指定。本尊は、「開運延命地蔵尊」(秘仏)。平安時代後期に活躍した仏師定朝の作といわれ、父源義朝公亡き後、伊豆の蛭が小島に流された頼朝が平清盛の継母の池禅尼より賜ったもので、幼少の頃より崇拝していた地蔵尊である。この地蔵尊を拝み抜いた頼朝公は、のちに天下統一を果たし鎌倉に幕府を開く。そして、建久元年(1190)、亡くなった父源義朝公の菩提を弔うために、頼朝公はこの開運延命地蔵尊(地蔵尊)と不動明王・毘沙門天を当山に収めた。不思議なご利益があると言われ、どんな願いでも叶えてくれると信仰を集めている。他に、聖観音、阿弥陀如来、大黒天、弘法大師などが祀られている。

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

客殿祭壇 中央・本尊 開運延命地蔵菩薩、本尊様脇侍 左・不動明王 伝快慶作 右・毘沙門天
客殿祭壇 開運延命地蔵菩薩(頼朝公念持仏) 本尊の奥・秘仏

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

護摩祈祷をしていただく
● 開運延命地蔵尊
ご住職よりご恵贈いただいた「大御堂沿革略記」の開運地蔵菩薩の縁起によれば、「そもそも当山客殿に安置する地蔵菩薩は元右大将源頼朝公の守り本尊である。平治の乱に僅か13才で、父義朝公に従い、激戦数刻、遂に軍敗れ、父子従者と共に美濃国小野の宿まで落ち延びしが、たまたま大雪に遭い、馬上のまま父兄と相失い、平盛頼の臣宗清に虜えられ、京都六波羅に連行される。平清盛これを斬に處せんとするが、この時、清盛の継母・池の禪尼が自分の末子・馬之輔を病死で失い、悲歎に沈む折であり、容顔が馬之輔に似ている頼朝を憐れみ、再三再四力を尽して清盛にその死を宥されんことを請う。清盛止むを得ずこれを宥し、豆州蛭が小島に遠流した。この時、池の禪尼は歓喜の余り、自分の持佛堂に安置している地蔵尊を頼朝に与える。頼朝はこれを得て背に帯び東へ下る。以来、頼朝はこの尊を深く崇拝し、謫所に在りて心ひそかに源氏再興の祈願を起こす。そして、この本尊の霊験により終に天下を掌握した。それにより、頼朝はこの地蔵尊を「開運地蔵菩薩」と名付けた。
その後、建久元年、頼朝は父義朝公の廟参ならびに堂供養の節、当地を訪れたが、その時の記念として収めたのがこの霊佛である。彫刻は日本佛師の権威である定朝大佛師によるものであるという。
したがって、古来、将軍武将の崇敬帰依篤く、武功を樹てられし者少なからず、殊に頼朝公の開運出世に因み、大願成就を祈誓し、不思議の利益を受ける者多く、衆庶の信仰が頗る深い。」とある。
● 不動明王
本尊様脇侍。東海三十六不動・二十一番の不動尊。平安時代末期の作。伝快慶作。
● 毘沙門天
本尊様脇侍。四天王のうちの一尊。北の方角の守護神。当山のものは室町時代の作。
● 絹本著色義朝最先考供養図(左)および絹本著色義朝最期図(右)
ご住職よりご恵贈いただいた「大御堂沿革略記」の源義朝公御最期之御繪解(この繪解は源敬公が源義朝公最後の繪図を客附せられし當時より傳承せる説明文なり)によれば、「この繪は當国御藩祖源敬公の御寄附、繪師は狩野探幽18歳の作、表具は権現様(家康公)より源敬公へ御譲りの織物、中縁は御装束の切にて致して御座る。云々」とある。

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

ご住職に「絹本著色義朝最期図」および「絹本著色義朝最先考供養図」の御繪解きをいただく

大御堂寺・野間大坊

源義経公之像
● 絹本著色義朝最期図(源義朝公最後之図)

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

頼朝最期図

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

頼朝最期図

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

絹本著色義朝最期図(源義朝公最後之図)
● 絹本著色義朝最先考供養図(源頼朝公大法會執行之図)

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

絹本著色義朝最先考供養図(源頼朝公大法會執行之図)
▼ 大御堂寺 本堂
大御堂寺一山の根本堂。現在の建物は3度の火災等に遭い、宝暦4年(1754)に鎌倉様式に則り再建されたもの。本尊は、阿弥陀三尊像で藤原時代の作。作者は快慶。県重要文化財に指定。

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺 本堂
● 木造阿弥陀如来坐像(中央)
明らかに定朝風を示す、藤原時代後期の県下有数の阿弥陀如来像。阿弥陀三尊仏の本尊。県指定重要文化財。
● 木造勢至菩薩立像(左)
阿弥陀三尊の一尊。藤原時代後期の作。美浜町指定重要文化財。
● 木造観音菩薩立像(右)
阿弥陀三尊の一尊。藤原時代後期の作。美浜町指定重要文化財。

大御堂寺・野間大坊

● 弘法大師坐像
ご住職よりご恵贈いただいた「大御堂沿革略記」の弘法大師霊験によれば、「そもそも當山は、延暦年中、高祖弘法大師諸国巡化の際、留錫ありし霊場にして衆生利益の為に一千座之護摩供を修し給ふ(今尚寳物として保存しあり)本堂に安置し奉る尊像は郡内新四國札所第五十番にして札所格別に霊験の記録を示す云々」および「そもそも當山札所五十一番弘法大師の霊験として数多ある中にも云々」とある。知多四国八十八箇所霊場の50番および51番札所であり、大御堂寺(阿弥陀如来)が50番、野間大坊(地蔵菩薩)が51番とされており、同じ境内に2つの札所が存在する。

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

▼ 悠紀殿
昭和天皇即位の礼の時に、新嘗祭のために京都御所内に建てられた建物を当山に御下賜され、昭和4年10月1日に移築されたもの。焼失した五重塔の本尊である頼朝ゆかりの大日如来(平安時代末期の作)やどのような願いも叶うとされる歓喜天聖天(修行した僧侶以外には非公開の秘仏)などを安置している。

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

▼ 野間大坊信徒会館

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

絹本著色義朝最期図
(源義朝公最後之図)
絹本著色義朝最先考供養図
(源頼朝公大法會執行之図)

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

京都六波羅合戦御繪解
弘法大師像
▼ 鐘楼堂
鎌倉五代将軍藤原頼嗣公寄進の梵鐘がある鐘楼堂。梵鐘は建長2年(1250年)の銘があり、尾張地方で最古の梵鐘といわれ、国重要文化財に指定されている。

野間大坊信徒会館

野間大坊信徒会館

▼ 大御堂寺 大門
大門は、源頼朝公により建久元年(1190)に創建されたもの。頼朝は天下統一の後、この地で謀殺された父・源義朝の菩提を弔うため、当山境内に父・源義朝の御廟所のほか、本堂、講堂、食堂、経堂、開山堂、鐘楼堂、浴室堂などの七堂伽藍や五重塔を再建し、父義朝公の大法會を行ったが、その際に建立された。鴨居の部分は左甚五郎作と言われる。

野間大坊信徒会館

野間大坊信徒会館

大御堂寺大門

大御堂寺大門

鴨居の部分は左甚五郎作と言われる。
▼ 義朝公御廟所
● 源義朝の最期
1159年(平治元年)、平治の乱で平清盛に敗れた義朝は、息子の義平・朝長・頼朝、一族の源義隆(陸奥六郎義隆)・平賀義信・源重成(佐渡重成)、家臣で乳兄弟の鎌田政清・斎藤実盛・渋谷金王丸らを伴い東国で勢力挽回を図るべく東海道を下るが、その途上度重なる落武者狩りの追討隊との戦闘で、朝長・義隆・重成は深手を負い、命を落とした。また頼朝も一行からはぐれて捕らえられ、義平は別行動で北陸または東山道を目指して一旦離脱するが再び京に戻って潜伏し、生き残っていた義朝の郎党・志内景澄と共に清盛暗殺を試みるが失敗する。
義朝は東国へ逃れる途中、尾張国野間に立ち寄り、乳兄弟と呼ばれた郎党の鎌田政家(政長・政清)の舅で相伝の家来であった長田忠致とその子・景致のもとに身を寄せるが、平家からの恩賞目当ての長田父子に裏切られ、『平治物語』では、湯殿(野間駅の東にある法山寺にあったとされる)に誘われ、入浴中に襲撃を受けて殺害されたとされる。1160年(平治2年)正月3日 享年38歳。政清も酒を呑まされ殺害された。京を脱出して3日後の事であった。また、『愚管抄』によれば長田父子の陰謀を察知した義朝が政清に自らの首を打つよう命じ、斬首したのちに政清は自害したとされる。しかし、ご住職よりご恵贈いただいた「大御堂沿革略記」の源義朝公御最期之御繪解では、「翌朝3日、義朝公を御湯殿に請じ、御湯を召させ奉る。長田かねて討つ謀みが故、御浴衣などをわざと置かず、不束にしておく、義朝公は金王丸を呼ぶが辺りに居ないため、義朝公大いに立腹し、長田の館へ取りに参りたる跡へ、潜伏者が躍り出て義朝公へ組付きぬ、先最初に出でたるは美濃尾張両国にて名を得たる無双の大力・橘七郎と申す者、ツト出でて義朝公へ組付きぬ、義朝公勝って御勇力に御座れば苦も無く取って御膝の下へ敷きなされけれども、続いて出でたる弥七兵衛、浜田三郎両人左右より取掛り難なく御首をかき取り相図の者に渡して御座る。(この時、義朝公御年三十八歳、鎌田も同年)」とある。

武将の宿命ではあるが、義朝は父や弟たちを滅ぼし、河内源氏嫡流を確立してからわずか3年で死を迎えることになる。しかし、義朝が東国に築いた地盤と嫡子頼朝に与えた高い身分は、後の頼朝による挙兵の成功、ひいては鎌倉幕府成立への礎となっていく。
● 主を討ちし不義者の末路
ご住職よりご恵贈いただいた「大御堂沿革略記」の源義朝公御最期之御繪解では、「長田父子御首を以て京都清盛公へ奉り、官祿を願いければ清盛公敵の事なれば大いに喜べども、茲に内大臣小松重盛公仰せには、重代相恩の主君を討ちし者なれば其の不義を憎むとて重き恩賞をも与えず唯壹岐守と申す號を与えられたる計に御座る。この時、長田父子大いに望みを失い、それより主を討ちし者なれば交わる人も無く、空しく年月を送るところへ、平家衰え、日を追って頼朝公御威勢盛んになりければ、長田父子身を置くに所なく自己の重刑を願い出れば云々」とあり、最後には、「建久元年十月御上洛の途次、當山へ御廟参の際、紀州高野満山の僧徒を御招き、六十餘州の諸大名を御供に執り行われた大法會において、御車會式相済みし後、長田父子を生捕義朝公の御廟の前にて板張附けに行いける、この時頼朝公の御上意には長田かねて約束の身の終りを宛行うべしとの厳命にて御座れば長田も末期の辞世を残し、「ながらえて命ばかりは壹岐守身の終りをば今ぞたまわる」と斯く詠じまして諸人の嘲弄を受け、合い果てまして御座る。」とあるように、義朝最期図・頼朝先考供養図ご住職のその絵解きは、主を討ちし不義の者の末路を以て、義を尊び不義を憎む因果応報や人への騙しや裏切りの戒めを教えんとするものである。
● 源義朝公の御廟
伝承によれば、義朝は入浴中に襲撃を受けた際、最期に「我に木太刀の一本なりともあればむざむざ討たれはせぬ。」と無念を叫んだとされる。義朝の墓はその終焉の地である野間大坊の境内にあり、上記の故事にちなんで幅約3センチ、長さ役約40センチの木刀が山のように供えられている。また境内には義朝の首を洗ったとされる「血の池」があり、国に異変があると、池の水が赤く染まると言う伝説がある。

大御堂寺 野間大坊

義朝公御廟所

大御堂寺 野間大坊

大御堂寺 野間大坊

義朝公御廟所

義朝公御廟所

義朝公御廟所

▼ 蒲田政家と妻の墓
鎌田政家(政清・政長)は、相模国の鎌田通清の子(首藤氏の一族)。義朝の第一の郎党。政家の母は義朝の乳母を務めたことから、義朝とは乳兄弟と呼ばれた。1159年(平治元年)、平治の乱で敗れると、東国で再起を図るため義朝とともに京を脱出し、尾張国野間の舅・長田忠致を頼ったが、忠致の裏切りに遭い、義朝とともに殺害された。隣には政家の妻の墓も建てられている。政家の妻は、義朝と政家を殺害した長田忠致の娘。政家の死を知ると、親を恨み夫の死骸に取りすがり、夫の短刀にてその場で自害したと伝えられている。

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

▼ 頼朝の命を助けた池禅尼(平清盛の継母)
池禅尼平清盛の継母。義朝の子頼朝は、1159年(平治元年)の平治の乱に敗れて東国へ逃れる義朝に従っていたが、途中ではぐれてしまったため平家の追手に捕えられた。源頼朝は、義朝の嫡男であったことから処刑される運命にあったが、池禅尼の助命嘆願により、清盛は頼朝を伊豆国の蛭ヶ小島に流罪とした。池禅尼は頼朝の命の恩人である。

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

▼ 跡目争いで豊臣秀吉に敗れ、大御堂寺で自害した織田信孝の墓
織田信孝は、織田信長の三男。父信長が本能寺で討たれた後、総大将として明智光秀を倒した。しかし、織田の後継者は、羽柴(豊臣)秀吉によって甥の三法師と決定され、秀吉と対立する柴田勝家に接近するようになる。1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れると、野間大坊(大御堂寺)に送られ自害させられた。最期にあたり「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」と詠んだと伝えられている。

大御堂寺・野間大坊

大御堂寺・野間大坊

▼ お休み処 まどか

大御堂寺 野間大坊

大御堂寺 野間大坊

人気の手打ちそばやぜんざい、お抹茶など、おくり(ご住職の奥様)の心の籠ったおもてなしあり

大御堂寺 野間大坊

大御堂寺 野間大坊

ご住職、ご子息に車で送迎いただき、感謝
名古屋ー野間は名古屋鉄道・特別車両で52分

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