先祖の足跡を訪ねて −清和源氏の祖・源経基を祀る六孫王神社(京都)−|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

「生命と微量元素」講座

先祖の足跡を訪ねて

清和源氏の祖・源経基を祀る六孫王神社(京都)

源為義と佐々木秀義にみる清和源氏と宇多源氏の血縁

京都での学会の帰途、崇徳天皇、源為義・為朝を祀りその影像を所蔵する白峯神宮、源為義の位牌を所蔵し墓所に供養塔を祀る権現寺への訪問に加えて、清和源氏の祖・源経基を祀る六孫王神社を訪問した。  2018年6月10日 降雨予想の中、タクシーを借り切っての訪問

六孫王神社を訪ねて

■ 六孫王神社
六孫王神社は、京都府京都市南区壬生川通八条角にあり、祭神として本殿に清和源氏始祖源経基六孫王大神、相殿に天照大神、源氏の氏神・八幡大神の3柱を祀る。経基は第56代・清和天皇第六皇子・貞純親王の第1子で、天皇の6番目の孫であることから「六孫王」と呼ばれた。源経基は平将門の乱や藤原純友の乱を平定したほか、経基に始まる清和源氏は、子孫に鎌倉幕府を築いた源頼朝や、源義経源義家木曽義仲、また足利、新田、細川、島津、明智、徳川などの名だたる武将を多数輩出し、歴史上で重要な役割を果たしていることから清和源氏の祖とされている。

六孫王神社の創建は、平安中期の応和3年(963年)。源経基の嫡子・満仲が父の霊を祀るために、経基が生前暮らした「八条亭」の跡地に神殿を建てたのが始まりである、また、創建した源満仲が清和源氏の武士団を形成したことから、「清和源氏発祥の宮」とも称され、多田神社(兵庫県川西市)、壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)と共に「源氏三神社」の一つとされている。旧社格は郷社。

鎌倉時代には、3代将軍・源実朝の妻・本覚尼(坊門信子)が暗殺された夫のために出家し、この六孫王神社と同じ地に「遍照心院(現在の大通寺)」を建立し、六孫王神社をその鎮守社とした。その後も源氏の流れを組む足利幕府によって手厚く保護されたが、応仁の乱で社領を失い、衰退し、経基の墓所だけが残されていたという。江戸時代になり、徳川5代将軍綱吉が7年を費やして復興し、宝永4年(1707年)に現在の本殿・拝殿が再建されている。*大通寺は明治維新の神仏分離により、六孫王神社と分離し、九条大宮南へ移転している。

六孫王神社を訪ねて

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六孫王神社入り口石碑
六孫王神社 鳥居

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六孫王神社 太鼓橋:「恋のかけ橋」と呼ばれる
六孫王神社:神龍池から本殿に続く参道

六孫王神社を訪ねて

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恋の歌の名手でもある祭神の源経基が残した和歌2首の石碑。いずれも恋の歌で、同神社は縁結びの聖地と呼ばれる。平安時代後期の「拾遺和歌集」に収録された「哀れとも 君だに言はば 恋ひわびて 死なむ命も 惜しからなくに」と「雲井なる 人をはるかに 思ふには わが心さへ 空にこそなれ」を刻んでいる。

六孫王神社を訪ねて

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六孫王神社 唐門(京都市指定文化財)

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六孫王神社 拝殿(京都市指定文化財)

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六孫王神社 拝殿(京都市指定文化財)
■ 源為義と佐々木秀義にみる清和源氏嫡流と宇多源氏嫡流の血縁
清和源氏の始祖・源経基より4代目嫡流・源義家の孫である源為義は、源義朝の父、源頼朝の祖父であり、宇多源氏の嫡流・佐々木秀義の養義父、佐々木定綱の祖父である。すなわち、源義朝佐々木秀義は養子兄弟、源頼朝佐々木定綱は従兄弟どうしである。

鎌倉幕府創設を支えた佐々木秀義とその息子たち

鎌倉幕府創設を支えた佐々木秀義とその息子たち

鎌倉幕府創設を支えた佐々木秀義とその息子たち

我が家系伝来の宇多源氏流(近江源氏・佐々木源氏)家系図(⇒ 秀義・定綱)
▼ 源為義
源為義 (1096-1156) は、平安時代末期の武将。清和天皇の皇子を祖とする清和源氏の嫡流:源氏の棟梁。祖父は「前九年の役」や「後三年の役」で武勇の士として有名な源「八幡太郎」義家、父は源義親。義親の西国での乱行により、祖父義家は三男・義忠を継嗣に定め、同時に孫の為義を次代の嫡子に命じたが、叔父の源義忠が家督就任3年後に暗殺されたため、河内源氏の棟梁となる。幼少時の為義は、京において祖父義家の養子として育てられ、祖父の死後は叔父の義忠に育てられている。なお父は源義家で、源義親と義忠は兄にあたるという説もある。検非遣使となり六条堀川の館に居住したことから通称は六条判官、陸奥四郎。源頼朝・源義経らの祖父である。

当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが、家族の度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、久寿元年(1154年)、鎮西に派遣した八男の源為朝の乱行により責任を取って、翌二年(1155年)に解官。家督を長男義朝に譲る。一方、長男の義朝は妻の実家の熱田大宮司家季範)を通じて鳥羽法皇に接近し、摂関家と結ぶ為義とは競合・対立していくことになる。
翌・保元元年(1156年)鳥羽法皇死後の皇位継承争いから、崇徳上皇後白河天皇が対立し、さらに摂関家(藤原氏)内部の権力争いから左大臣頼長が上皇と関白忠通が天皇と結びついて、それぞれ配下の武士を召集したことから「保元の乱」が起こる。

主君に仕える武将の宿命か、為義は、主君・頼長の召集に応じて子の頼賢為朝ら一族を率いて崇徳上皇方につき、後白河天皇方の長男義朝や婿養子秀義平清盛らと戦うことになる。
為義は崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、東国へ落ち延びようとしたが、後白河天皇方についた長男の義朝のもとに降伏。出家する。後白川院の勅に対して、息子の義朝は自らの戦功に代えて、父・為義と弟たちの助命を願うが許されず、保元2年7月30日に義朝により(実際は配下の鎌田兵衛正清に申つけて)斬首された(場所は『保元物語』では七条朱雀、『兵範記』では船岡山)。享年61歳。天皇より贈られた源為義の位牌「贈内大臣義法大居士六條判官為義公 尊儀」(尊儀=天皇)
▼ 佐々木秀義
佐々木秀義 (1112-1184) は、平安時代末期の武将。宇多天皇の皇子を祖とする宇多源氏の嫡流:佐々木氏の当主。諱は秀義。源三と称す。贈・近江権守。法号は長命寺殿。享年73歳。宇多天皇玄孫・源成頼の嫡男である佐々木氏の祖・源章経(佐々木義経)の孫。13歳の時、清和源氏の嫡流源為義の養子となり、為義のを娶る。源頼朝の父・義朝とは婿養子兄弟ということになる。伯母は奥州の覇者・藤原秀衡の父・藤原基衡の妻である。子には、嫡子長男・定綱、次男・経高、三男・盛綱、四男・高綱、五男・義清などがいる。頼朝の挙兵鎌倉幕府立ち上げ)には、頼朝の従兄弟でもある息子の定綱、経高、盛綱、高綱の四兄弟を助けに向かわせる。

保元元年(1156年)に崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱で、秀義は天皇方の源義朝に与して戦うことになり、勝利するが、義朝に与し義朝の嫡子である源義平(鎌倉悪源太、源頼朝・義経らの異母兄)とともに戦った平治元年(1159年)の平治の乱では、義朝方は敗れる。子の定綱、経高、盛綱(このとき、高綱は幼少だったため、京都にいる叔母のもとに残した)を連れて伯母の夫である藤原基衡(秀衡の父)を頼って奥州へ落ち延びようとしたが、途中、秀義の武勇に惚れ込んでいた桓武平氏の一族で武蔵国から相模国に至る領地を有した渋谷重国に引き留められ、その庇護を受ける。この地で20年を過ごし、渋谷重国の娘を娶り五男の義清をもうける。子息たちも宇都宮朝綱・渋谷重国・大庭景親など豪族級東国武士の娘婿になった。そして、秀義は、乱後に伊豆国へ流罪となった義朝の嫡子・源頼朝の挙兵(鎌倉幕府立ち上げ)には、頼朝の従兄弟でもある息子の定綱、経高、盛綱、高綱の四兄弟を助けに向かわせる。
元暦元年(1184年) 7月、平家の残党による三日平氏の乱(伊勢・伊賀平氏の挙兵、江州甲賀郡上野村)の鎮圧に赴き、90余人を討った後、流れ矢に当り討死した。享年73歳。死後、その功により近江権守を贈られる。(『源平盛衰記』)  法号は長命寺殿

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