先祖の足跡を訪ねて −京極高忠多賀豊後守開創の宗仙寺・再訪問−|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

「生命と微量元素」講座

先祖の足跡を訪ねて

京極高忠多賀豊後守開創の宗仙寺・再訪問

高忠の墓石確認のため2度目の宗仙寺訪問(京都) 2019年6月23日

京都での学会の帰途、出発前の時間を利用して、室町幕府京都所司代・京極(多賀)高忠の開創とされる宗仙寺(京都)を墓石確認のため再訪問する。 2019年6月23日
■ 大平山宗仙寺略縁起

宗仙寺・再訪問

住職より恵贈いただいた「大平山宗仙寺略縁起」によると、当寺は大聖釈迦牟尼仏を本尊とし、その直示の教えを伝え実践する曹洞(禅)宗寺院である。今より五百五十七年前の寛正二年(1462年)、京都所司代京極高忠多賀豊後守公により、高倉六条の地に開創された。その後、天正七年(1579年)三月、天江東岳大和尚を招いて高倉五条素塩竈(京都市下京区五条通高倉東入塩竈町)の地へ移り、七堂伽藍はじめ一滴庵・寿昌庵等の塔頭などを完備し円成する。これにより、東岳大和尚を開山禅師と尊称している。
東岳大和尚の禅機(禅修行の教え)である学徳恰も天聴(天子の耳)に達し、畏くも正親町天皇は深く御帰依なされて、天正十三年(1585年)十二月二十七日参内(宮中への参上)を仰せ付けられ、関州徳光禅師の勅賜号御宸翰(天皇自筆の文書)および紫衣を賜る叡感に浴す(天皇からの称賛の栄誉を授かる)。また三世無住其心大和尚も寛永二十年(1644年)三月十六日参内を仰せ付けられ、明正天皇より奪山広沢禅師の勅賜号と紫衣および御宸翰を賜る。元禄四年(1692年)三月の寺格改めには東山天皇より、享保二年(1718年)六月の寺格改めには中御門天皇より本山格の勅許を賜うなど、咸く(全て)希有の事である。
叙上の如く、歴代住持(住持職)は篤く国恩(国から受ける恩)を心に深く刻み、正親町天皇以来明治初年まで、毎年正月・九月には参内して天機(天皇のご機嫌)を奉伺する。また曹洞宗大本山代理として禁裏・仙洞両御所へ参内および公席に列するなどの外、有栖川宮家七代・韶仁親王の時、宮家御祈願所となり、寺紋に有栖川菊紋を許される。本堂正面の扁額「大平山」は、実に韶仁親王の御直筆である。
この間、京都は兵戦多く、三回祝融(戦火)に見舞われたが、咤枳尼尊天(だきにそんてん:嵯峨天皇皇子・河原左大臣源融公の守り本尊)堂と現存の山門一字(幾度か修復する)は火災を免れたという。この事を聞こし召され、禁裏より特に不可思議の故をもって山門保存の宣命を蒙る。下って、元治元年(1864年)の大火には、周囲尽く灰燼に帰せしが、当寺のみ災火を受けず、これ偏に鎮守咤枳尼尊天御守護の霊験であると、火除けの稲荷様、招福の稲荷様と弥々ひろく尊崇されるに至る。古来当寺の檀家・講中に火元の火災なしと伝う。最近また信者が火難を隣家で食い止めたる実例の報告三、四に止まらず、只々不思議な神験という外なし。
当寺書院豊臣秀吉建立の桃山初期の建築と推定される(東工大・藤岡通夫博士)。明治維新廃仏毀釈の際に大徳寺より移建されたものである。同書院襖絵狩野永徳の筆にして現在京都博物館に保管されている。と記されている。

宗仙寺・再訪問

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山門

宗仙寺・再訪問

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本堂
中門

宗仙寺・再訪問

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墓地入口 左に菩薩像
本堂 上がり框

宗仙寺・再訪問

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中庭

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渡り廊下
書院

宗仙寺・再訪問

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本堂内

宗仙寺・再訪問

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本堂祭壇

宗仙寺・再訪問

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本尊:大聖釈迦牟尼仏

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墓所

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