先祖の足跡を訪ねて−13代目・高重:別称として屋号を用いる(元禄15年)Rel|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

「生命と微量元素」講座

先祖の足跡を訪ねて

13代目・高重:別称として屋号を使い始める(元禄15年)

「本姓」など、氏族の系統を示す「称号」の代替(別称)として「屋号」を使用

3代目・高重:安芸国へ拠を移す

▼ 佐々木京極家より13代目となる高重長右衛門:江戸時代となり、徳川政権下では、氏族の「本姓」を名字として使用しづらくなったため、元禄15年、門・家・氏族の系統を示す「称号」の代替(別称)として、「屋号」を使い始めた。
江戸時代に入り、徳川政権下では、源、平、藤原、橘などの氏族の本姓(ほんせい)を名字(なあざな)として使用しづらくなったため、「本姓」を持つ氏族の一部の間で、ヨーロッパにおける貴族の如く、一門・一家・一氏族の系統を示す「称号」の代替(別称)として、「屋号」を使い始めた。

わが家系では、江戸時代に入り、元禄15年、佐々木京極家より13代目となる高重長右衛門が、一家・一氏族の系統を示す「称号」の代替(別称)として、「屋号」を使い始め、自らの屋号を先祖地縁の地名(すなわち、高重長右衛門の生誕地&父・高福長右衛門の任領地、また先祖・京極家の領国の1つでもある石見国・益田郡の地名)に因んで、益田屋と称した。そして、家系の継続や家格を示す称号として、高重の3人の息子:嫡子・半左衛門、二男・長左衛門、三男・徳右衛門にそれぞれに林屋、佐々木屋、亀井屋の屋号を与え、別家させた。

ちなみに、屋号、家号(やごう)とは、ヨーロッパにおいては主に貴族、日本においては「姓を持つ氏族」の家系にも使われ、一家族、一氏族の系統を示す称号として用いられた。

高重:屋号を使い始める

高重:屋号を使い始める

高重:屋号を使い始める

先祖伝来の系図:宇多源氏・佐々木京極家13代目・高重(家紋:宇多源氏嫡流の隅立四ツ目結)
■ 高重:山縣郡八重村龍ヶ谷城主
佐々木京極家より13代目となる高重長右衛門:江戸時代初期・元禄3年(1690年)、山縣郡八重村龍ヶ谷の城主(現在:千代田町)。木次村(現在:千代田町)に転住し、元禄10年まで住む。同年、息子3人を召し連れて高田郡志路村字桐山(現在:白木町)に転住する。
菩提寺:専念寺(戒名:照徳院釋源敦實胤正不世居士
■ 屋号、家号(やごう)とは 

屋号、家号(やごう)とは、主にヨーロッパ、日本において使用され、ヨーロッパにおいては主に貴族、日本においては源、平、藤原、橘などの「姓を持つ氏族」の家系の間で使われ、一門・一家一氏族の系統や特徴を基に家に付けられた称号である。

ヨーロッパでは、der Geschäftsnameという。ドイツ語圏においては、"Zum Goldenen Schwan"(金の白鳥亭)や "Weisser Hirsch"(白い鹿亭)、さらにドイツ語圏のオーストリアのザルツブルクでは"Weisse Rossl"(白馬亭)、インスブルックでは“Goldener Adler”(金の鷲)といったものが有名である。

日本においては、江戸時代に入り、徳川政権下では、幕府により苗字帯刀を許された(「苗字御免」「苗字帯刀御免」の)武士や有力な庄屋、名主以外の者が苗字を公的に名乗ることが出来なくなったことや、源、平、藤原、橘などの氏族の「本姓」(ほんせい)を名字(なあざな)として使用しづらくなったことを背景に、「本姓」を持つ氏族の一部の間で、ヨーロッパにおける貴族の如く、一門・一家・一氏族の系統を示す「称号」の代替別称)として、「屋号」を用いることが注目され始めた。

当初は、その使用は、源、平、藤原、橘などの「本姓」を持つ氏族の一部に限られていたが、江戸時代中期になると、一門・一家・一氏族の系統を示す「称号」としての「屋号」だけでなく、次第に富農や大商人の家系の継続や家格を示す称号としても使用が許され始め、江戸時代後期では、格式のある商人(あきんど)の世界で、その利用が拡大した。

(しかし、明治維新における「屋号廃止令」以後は、周知の如く、単なる商売人の商業上の名前(商店名)として、看板替わりに「屋号」が使われている)。

PageTop