先祖の足跡を訪ねて −6代目京極高詮の墓所&菩提寺「能仁寺」遺跡(米原)−|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

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先祖の足跡を訪ねて

6代目・京極高詮の墓所&菩提寺「能仁寺」遺跡

6代目・京極高詮の墓所&菩提寺「能仁寺」遺跡(米原)を訪ねて

講演出張の帰途、京極家6代目・京極高詮の宝篋印塔がある佐々木京極家累代の墓所:清瀧寺京極家墓所(滋賀・米原)を訪ねる。 2014年11月14日
■ 京極家6代目・京極高詮

6代目京極高詮

6代目京極高詮

6代目京極高詮

▼ 京極家6代目 京極高詮
京極家6代目 京極高詮は、室町時代前期の武将、守護大名室町幕府(足利義満)侍所頭人、近江・飛騨・出雲・隠岐・山城・石見の守護。官位:左衛門尉、検非違使、治部少輔。四職家。京極氏当主5代目京極高秀の嫡男。秀満、尼子高久、宍道秀益の兄。初名は高経、法名は浄高。子に高光、高数。

正平20年/貞治4年(1365年)、同族で佐々木氏の宗家である六角氏の当主・六角氏頼の嫡男・義信が早世したため、高経が養嗣子として六角氏に入るが、4年後の正平24年/応安2年(1369年)に、氏頼に実子・亀寿丸(後の六角満高)が生まれ、かつ氏頼は翌年に死去してしまう。このため跡目争いが生じるが、管領細川頼之の主導で幕府が介入し、高経が成人するまでの亀寿丸の後見役となり、六角氏代々の近江守護を任じることで決着。しかし、わずか7年後の天授3年/永和3年(1377年)に近江守護職を解かれたため、高経は京極氏へ戻り、京極宗家を継ぐことになる。この出来事は父・高秀の怒りとなり後の「康暦の政変」で反細川頼之陣営に加わる原因となるが、この加担がさらにこれまで兼ねていた出雲・摂津など数カ国の守護も飛騨守護を残してすべて解任される結果となる。すなわち、「康暦の政変」においては、父・高秀は斯波義将らと共に将軍義満に強訴し、政敵・細川頼之を罷免させることには成功したものの、京極氏の領国はすべて没収されることになり、それから2年後にようやく飛騨のみ返還される結果となった。
(この解任劇の背景には、当時、幕府内における管領・細川頼之と前管領・斯波義将との間で激しい権力争いがあり、斯波派の京極家を抑えるために、細川頼之が高詮の六角家からの分離を画策したために起こったものと考えられている)
 
明徳2年(1391年)、父・高秀が亡くなり、高詮は家督と飛騨の守護職を継ぐことになるが、同年、全国66ヶ国中11ヶ国の守護を務めていた幕府随一の守護大名家・山名氏が幕府に背く「明徳の乱」を起こしたため、高詮は幕府方に味方して京都の内野合戦で功を上げ、翌年には山名氏の領国であった出雲・隠岐守護へと任ぜられる。
ちなみに、出雲へは甥(弟・高久の子)の持久を守護代として派遣し、その子孫は戦国大名の尼子氏となる。また出雲大社において当時とぎれていた祭事の「三月会」を復興させた。

応永元年(1394年)から応永5年(1398年)には侍所頭人も務め、四職家のひとつに定められるが、「明徳の乱」に敗れ京都の五条坊門高倉に潜伏していた山名満幸を捕らえて処刑した。この後、出家し京極浄高と名乗るが、主君である義満の出家に従ったとも考えられている。しかし、高詮は出家後も京極氏の実権を握り、応永6年(1399年)末に勃発した「応永の乱」でも幕府方の部将として活躍する。すなわち、大内義弘が幕府に背き、領国の和泉に城砦を築いて立てこもったため、高詮は細川氏・赤松氏らとともに義満に従い、これを討った。乱後に義満から石見守護職も与えられ、父・高秀時代の京極氏の勢力をほぼ回復させた。

ちなみに、この応永の乱では、高詮の弟・満秀が義弘側についている。満秀にしてみれば、兄・高詮が六角氏に入り京極家の家督は弟の自分だとされていたはずなのに、高詮が六角氏から戻され京極氏を継ぐことになった事に不満だったためか、反幕府方(義弘側)に呼応し挙兵しているが、程なく鎮圧されて没落している。

高詮は、応永8年(1401年)に出雲・隠岐・飛騨の守護職を嫡男の高光に継がせ、程なくして死去した。応永8年9月7日(1401年10月14日)卒。享年49。墓所:滋賀県米原市徳源院。

偏諱を与えた人物
高詮は甥(尼子高久の長男で持久の兄:近江尼子氏の初代。出羽守)に、尼子詮久(読みは「のりひさ」の偏諱を与えている。
■ 京極家6代目 京極高詮の墓所(清瀧寺京極家墓所・滋賀米原)

京極家墓所

京極家墓所

京極家墓所

京極家墓所

京極家墓所

清瀧寺京極家墓所入り口
清瀧寺本堂
清瀧寺本堂

三重塔

三重塔

墓所入り口

三重塔
三重塔
墓所入り口

京極家墓所(墓石配置図)

京極家墓所(墓石配置図)

京極家墓所・上段

京極家墓所・上段

左より 高数(7代目)、経氏、持高、宗氏(3代目)、宗綱、高吉、高弥、高広、高清 ・・・
右より 氏信(初代)、貞宗、頼氏、高氏(4代目)、高秀(5代目)、高詮(6代目)、高光、持清、政光 ・・・

京極高詮墓石・宝篋印塔

6代目京極高詮の宝篋印塔
■ 高詮の菩提寺・能仁寺の寺院跡見つかる
滋賀県文化財保護協会は2010年11月19日、米原市清滝の能仁寺遺跡で、室町時代の守護大名・京極氏の第7代高詮(1352〜1401)の菩提寺とみられる15世紀の寺院跡が見つかったと発表した。
出土したのは、清滝寺徳源院とそれに隣接する京極家累代墓所の南隣約3900uで、地名の「能仁寺」そのものの跡とみられ、高詮の戒名に「能仁寺殿乾嶺浄高大居士」とあることから、菩提寺と推定された。
調査は能仁寺川の砂防工事に伴い、川沿いの約3900mで今年五月から行われ、南北約12.5m、東西推定約14mの規模で寺院の中心があったとみられる寺院の遺構が出土した。仏堂の基壇とみられる区画(南北12.5m、東西14m程度)が確認され、当時、寺院で使われたとみられる瀬戸焼の香炉、陶器、飾り金具、瓦、土器類などが出土した。この区画につながる東側では山門跡とみられる礎石が見つかり、さらに山門から伸びる粘土で舗装した参道(長さ17m)とこれに沿って自然石を積んで垂直に築かれた石垣(長さ14m、高さ1.5m)が見つかった。
とくに、中世に建てられた守護大名の菩提寺は少なく、中世寺院として最古の石垣が出土した、と発表された。中世寺院の石垣は安土城など戦国大名らが築いた城の石垣のルーツとされ、今回出土した石垣は城郭建築の変遷を知る上で、また守護大名と菩提寺との関わりを知る上で貴重な資料になるという。 [参考:京都新聞、朝日新聞社、読売新聞、中日新聞、共同通信、びわ湖放送、滋賀県文化財保護協会HP、滋賀県HP、2010.11.23「清滝寺・能仁寺遺跡発掘調査現地説明会資料」(滋賀県、滋賀県文化財保護協会)]

清滝史跡散策マップ

能仁寺遺跡発掘現場

出土品・五輪塔

能仁寺遺跡発掘現場(滋賀県教育委員会より)
(左奥に徳源院の三重塔がみえる)
出土した五輪塔(滋賀県教育委員会より)
▼ 能仁寺遺跡 −京極高詮の菩提寺の下層から室町時代の庭園池を確認
滋賀県文化財保護協会は2011年6月2日、米原市清滝の能仁寺遺跡で、室町時代の庭園池を確認したと発表した。 清滝を本拠地とした京極氏が造ったとみられる。池は東西3.7m、南北2.5mの方形で、昨年11月に発掘された京極氏7代京極高詮、(1352-1401)、戒名「能仁寺殿乾嶺浄高大居士」)の菩提寺とされる寺院の基壇跡の下層にあり、寺を建てる際には取り壊されたとみられる。[参考:京都新聞、読売新聞、中日新聞、滋賀県文化財保護協会HP、滋賀県HP、2010.11.23「清滝寺・能仁寺遺跡発掘調査現地説明会資料」(滋賀県、滋賀県文化財保護協会)]

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