白河院政期、名門武家家系における不自然な継嗣の謎|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

「生命と微量元素」講座

先祖の足跡を訪ねて

白河院政期、名門武家家系における不自然な継嗣の謎

佐々木氏、源氏、平氏における嗣子の生母不詳と不自然な継嗣

■ 白河上皇による院政と専制政治
平安時代中期、幼く短命な天皇が多く、指導力ある政治ができないため、父系に代わり、母系の外祖父の地位を占めた藤原北家が天皇の職務・権利を代理・代行する「摂関政治」が隆盛していくことになる。
しかし、治暦4年(1068年)の後三条天皇の即位によって、外戚の地位を権力の源泉としていた摂関政治が揺らぎ始める。すなわち、後三条天皇は、宇多天皇以来、藤原北家(摂関家)を外戚に持たない170年ぶりの天皇であり、その強みを背景に、即位直後より「皇権の確立と律令の復興」を企画実行し、延久の荘園整理令(1069年)など、積極的な政策展開を行う。そして、延久4年(1072年)、第一皇子貞仁親王(白河天皇)へ生前譲位し、その直後に病没する。このとき、後三条天皇が院政を開始する意図を持っていたか否かが議論されているが、近年では、摂関家を外戚に持たない異母弟である実仁親王・輔仁親王に皇位を継承させることによる皇権の拡大を意図し、摂関政治への回帰を阻止したものであるとする説が通説化している。

次の白河天皇は、母が御堂流摂関家ではなく、閑院流出身の中納言藤原公成の娘、御堂流・春宮大夫藤原能信の養女である女御・藤原茂子であり、中宮が同じく御堂流藤原師実の養女藤原賢子(御堂流とつながりがある村上源氏中院流出身)であったこともあり、関白を置いたが、後三条天皇と同様に親政を行なっている。そして、応徳3年(1086年)、白河天皇は当時8歳の善仁皇子(堀河天皇)へ生前譲位し、自らは太上天皇上皇)となるが、幼帝を後見するため白河院と称して、引き続き政務に当たった。一般的にはこれが院政の始まりであるとされている。しかし、近年では、宇多天皇が醍醐天皇に譲位し法皇となった後に、天皇が病気したため、実質上の院政を行っていた事が明らかとなり、院政の始まりを、後三条天皇を含めて、それより以前に存在したとする説が有力となっている。

生前の後三条天皇や反御堂流の貴族は、皇位継承の安定化のため、摂関家を外戚に持たない異母弟である実仁親王・輔仁親王への譲位を望んでいたが、白河天皇の真意は、皇位継承の安定化というよりはむしろ自分の子による皇位独占という意志が強く、我が子である善仁親王に皇位を譲ることで、弟たちの皇位継承を断念させる意図があったと思われる。言い換えれば、白河院政の当初の目的は皇位決定権を掌握することであり、それによる皇権の拡大を意図したものであったと思われる。

院政開始当初は、国政に関する情報が天皇の代理である摂関に集中する仕組となっていたため、摂政であった藤原師実と相談して政策を遂行し、堀河天皇の成人後は堀河天皇と関白・藤原師通が協議して政策を行うという政治形態で始められたが、師通の急逝と後継の藤原忠実の未熟な政治経験によって、政治が弱体化したため、堀河天皇は直接父親の白河上皇に相談せざるを得なかったようである。そして、更にその堀河天皇も崩御し、幼い鳥羽天皇が即位したため、結果的に白河上皇による権力集中が成立したものと思われる。

従来の直系相続による皇位継承では、男子確保という常に皇統断絶の不安がつきまとい、また逆に皇子乱立では皇位継承紛争が絶えないことになるが、院政の下では、「治天の君」が次代・次々代の天皇を指名できるため、比較的安定した皇位継承が実現でき、皇位継承に「治天の君」の意向を反映させることを可能にした。さらに、従来の外戚関係を媒介とした摂関政治と異なり、直接的な父権に基づく専制的な統治が可能とした。そして、院政を布く上皇は、自己の政務機関として院庁を設置し、院宣・院庁下文などの命令文書を発給し、非公式に近い院宣を用いて朝廷に圧力をかけ、摂関任命人事へも関与した。また、院独自の側近を太政官内に送り込み、事実上の指揮を執った。そのため、院の近臣と上皇との間に個別の主従関係ができ、それを利用する出世や権勢拡大の土壌となった。とくに、上皇独自の軍事組織として置かれた北面武士には、「源氏」の勢力ならびに「源氏」の武力を頼みとする摂関家を抑えるために、「平氏」を主とした武士勢力の登用を図ったため、逆に平氏の権力拡大を助長する結果となった。(白河院政の源氏抑圧策の始まり

白河法皇は、鳥羽天皇の第一皇子・顕仁親王(崇徳天皇)を皇位につけた後、崩御となり、鳥羽天皇が院政を布くこととなった。鳥羽上皇は崇徳天皇を遠ざけ、第九皇子である体仁親王(近衛天皇、母:美福門院)に皇位を継がせ、さらに近衛天皇没後はその兄の第四皇子・雅仁親王(後白河天皇、母:待賢門院)を継がせた。鳥羽上皇は、源氏や平氏の武士を組織化し、さらに諸国の荘園を集積したことで、専制的な権力を築いた。そして、鳥羽上皇が崩じた直後、保元元年(1156年)に、朝廷の実権を握ろうとする崇徳上皇が兵を集結させたため、後白河天皇は平清盛ら武士を動員して先制攻撃し、後白河天皇が勝利した(保元の乱)。

そして、保元3年(1158年)、後白河天皇は第一皇子・孫王(二条天皇)へ譲位して院政を開始したが、二条天皇は天皇親政を指向したため、後白河院政派と二条親政派の対立が生じ、二条天皇の代では後白河院政は決して盤石なものではなかった。ところが、二条天皇が病のため、永万元年(1165年)、幼い六条天皇に譲位し、崩じることとなり、実質上の後白河院政が成立した。しかし、この後白河院政期には、その後、平治の乱平氏政権の隆盛と崩壊治承・寿永の乱の勃発、源頼朝の鎌倉幕府成立など、武士が一気に台頭し、武士が政治の流れを決める時代へとなっていった。

とくに、平清盛ら平氏の勢力が増大し、院近臣の排除などの行為に対して、後白河院政勢力は不快感を持つようになり、後白河法皇は平清盛と対立を深めていく。そして、後白河院政が無断で清盛の子息や娘の死を理由に彼らの荘園や知行国を没収し、摂関家嫡流の採用など強引な人事を行ったことに対して、治承3年(1179年)11月、清盛の反乱(治承三年の政変)が起こる。この政変で清盛は法皇を幽閉して徳子の産んだ言仁親王(安徳天皇)を擁し政治の実権を握る。すなわち、後白河法皇による院政は停止され、第七皇子・憲仁親王(高倉天皇)の親政が成立するが、高倉天皇は治承4年(1180年)2月に言仁親王(安徳天皇)に譲位し、平氏の傀儡として高倉院政が開始される。しかし、もともと病弱であった高倉上皇は病を得て、養和元年(1181年)1月14日に崩じ、清盛による平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病でこの世を去った。結局、清盛の後継者であった平宗盛が後白河院政を復活させるが、平氏政権は源平の戦いで崩壊し、源頼朝による鎌倉幕府が成立し、武家支配の時代となる。
建久2年(1202年)、この時期、後白河法王源頼朝は死去しており、後白河院政の後は、その孫の後鳥羽上皇(安徳天皇異母弟、高倉天皇第4皇子)が院政を布く。後鳥羽院は、北条義時追討の院宣を出し、皇権復興を企図して鎌倉幕府を倒そうとしたが失敗し(承久の乱)、自身は流罪となった上、皇権の低下と執権北条氏の朝廷への介入を招いてしまう。乱後、後堀河天皇が即位すると、その父親である行助入道親王(高倉天皇の第二皇子・安徳天皇は異母兄、後鳥羽天皇は同母弟)が「治天の君」として異例の太上天皇号を奉られ、法王として院政を敷いた(薨去後に贈・後高倉院)。ちなみに、この院政は承久の乱以降も存続し、公家政権の中枢として機能した。
■ 朝廷の男色嗜好と名門武家家系への影響
上記のように、平安時代末期、天皇が息子や孫に帝位を譲って、太上天皇(=上皇)や法王となった後も、院政を布いて権勢を振るったが、この院政期、天皇や公家の間では、男色が盛んに行なわれており、白河院以後、鳥羽院後白河院たち代々の院も、女色男色の両方を嗜んだことが知られている。

とくに、白河法皇は、院政開始後、院御所の北面を詰所とし、上皇の側にあって身辺の警護あるいは御幸に供奉させる院独自の武士集団・北面(廷臣・衛府の官人から成る近衛兵)を創設し、北面の武士として院に近侍させたが、白河院以下、代々の院たちは、男色を好んだので、自然とこの中には、容色に優れた者が北面の武士に選ばれ、院の寝所に侍り、院の寵愛を受ける、いわゆる法皇の男色相手の「御寵童」が生まれた。その最初の「御寵童」が、佐々木経方の長子とされる為俊(幼名・千手丸、季定秀定)、晩年家定)であり、元服前より院北面に昇殿し、白河院北面の殿上童として、白河院の別格の寵愛を受けたのである。昇進も別格で、童ながら初官を左兵衛少尉に直任され、その2年後には検非違使に補任されている。武者としてではなく、行幸の花舞人陪従としての補任であり、「常恵冠者」と称される所以である。そして、康和2年(1100年)には従五位下に叙爵されている。

ちなみに、平氏においても、平清盛の父にあたる忠盛も院北面の殿上童として為俊同僚であるが、白河院の女御と子(ご落胤)を下賜され、自分の妻子にし、その子供が清盛であるという説がある。佐々木氏においても、院の寵愛が別格だった為俊(李定)にも院の女子と子(ご落胤)が下賜され、その子が秀義とするのは、下衆の勘繰りであろうか。また、この院政期、同じような現象が平氏や佐々木氏だけでなく、河内源氏の家系においても現れている(後述の源為義の項参照)。すなわち、源義家は生前に次々代の後継を嫡系ではなく、平忠盛と同い年の生母不詳の為義にするよう遺言している。これも、「院あるいは朝廷の男色嗜好あるいは政治的策略が名門武家家系の継嗣へ及ぼした影響」によるものであろうか。もしそうであるならば、白河上皇による名門武家家系の継嗣攪乱血統破壊と言うことになる。(後述ならびに他のページ参照)

■ 白河院政期、名門武家家系における不自然な継嗣の謎
■ 「嗣子の生母不詳と不自然な継嗣の謎

三大武家の嗣子の生母不詳と不自然な継嗣

▼ 平清盛の生母不詳の謎
平清盛は、永久6年1月18日[1](1118年2月10日)、『公卿補任』の記事から逆算すると、元永元年(1118年)、伊勢平氏の棟梁である平忠盛の長男として生まれるとされているが、実父は白河法皇という説もある。生母は不明だが、『中右記』の保安元年(1120年)7月12日条には「伯耆守忠盛妻俄に卒去する、云々。是仙院の辺なり」という記載があり、忠盛の妻が仙院(白河法皇)の周辺に仕えた女房であったことがわかる。そして、この女性が清盛の母である可能性が高い。すなわち、白河法皇に仕えた女房で、忠盛の妻となった女性である可能性が高い。また、『平家物語』の語り本系の諸本は清盛の生母を祇園女御としているが、読み本系の延慶本では祇園女御に仕えた中搶蘭[としている。すなわち、『平家物語』では、白河法皇の寵愛を受けて懐妊した祇園女御あるいは中搶蘭[が、白河院北面の殿上童であった忠盛に下賜されて、清盛が生まれたとしている(いわゆる落胤説である)。しかも、幼少期の清盛は祇園女御の庇護の下で成長したと推定されており、祇園女御の庇護下で育ったことから、清盛の実父は白河法皇であるとの噂が当時からあったという。また、明治26年(1893年)に発見された滋賀県・近江国胡宮神社所蔵の『仏舎利相承系図』文書(文暦2年(1235年)の日付)には、清盛の生母とされる「女房」は祇園女御の妹であり、姉の祇園女御が清盛を「猶子」としたと記している。しかし、このとする記述を後世の加筆として、否定する説もある。
▼ 源為義の生母不詳と継嗣の謎
1.義親の実子説
『尊卑分脈』には、義親の息子として為義を含めて6人が列挙されている。義親の正室は肥後守・高階基実の娘である。義信(長男)・義俊(次男)・義泰(三男)・義行(五男)がそれぞれ対馬太郎・対馬次郎・対馬三郎・対馬四郎の呼び名を持つことから、この4人が正室の同母兄弟で、為義は生母不詳の異母兄弟ではないかと推測されている。このように、『尊卑分脈』の記載を採用して、源義親の四男とする見解が一般的であるが、『尊卑分脈』成立以前の『源氏系図』や藤原忠実の日記『殿暦』(天仁2年2月17日条)には「義家朝臣四郎男為義」の文字が見られ、為義は義家の四男であったとする説もある。ただ、ここで不思議なのは、父親・義親の母でも源隆長の娘と明らかであるのに、為義の生没年は明白であるが、母親が不詳だということである。そして、義親や義国、義忠の他の実子を差し置いて、為義をわざわざ嫡系に指名したのか、極めて不思議である。
2.義家の実子説
『尊卑分脈』成立以前の『源氏系図』や藤原忠実の日記『殿暦』(天仁2年2月17日条)には「義家朝臣四郎男為義」の文言や『永享記』の「一男対馬守義親、二男河内判官義忠、三男式部大輔義国、四男六条判官為義。」という記載があり、『尊卑分脈』の「為義の母」の項目には「同義国、中宮亮有綱女」とあることから、為義は義家四男であったとする説である。
これには2通りの解釈ができる。1つは、為義の生母は不詳であるが、義家の妻(義国・義忠の母)が為義を養育していたとする養母説であり、他の1つは、為義を義家の実子で、四男とする説であり、この場合「同義国、中宮亮有綱女」の記述は養母ではなく実母ということになる。
ただ、ここで不思議なのは、義親の生母は源隆長娘、義国・義忠の生母は中宮亮藤原有綱娘と明らかであるのに、為義の生没年は明白であるが、母親が不詳だということである。
3.義家の養子説
3−1.御落胤説の背景
後三年の役の戦いにあたって、義家は清原氏追討の官符を朝廷に求めたが、朝廷は義家による奥州征覇の私戦とみなして、追討の官符も恩賞も与えなかったので,義家は随従した武士に自らの私財を恩賞として与えた(『奥州後三年記』)。こうした義家の温情ある行為と奮戦の武勇によって武士の信望を集め、東国(関東)の武士は後の代まで源氏に従い,東国における源氏の勢力は著しく増大した。義家は天下第一の武人(「天下第一武勇之士」)などと称され、名声高く,諸国の在地有力者が競って田畑を寄進し始めたため,1091年、朝廷は義家のみ寄進を禁止したとされる。院や貴族においても、義家の勢力が急激に増大するのに警戒心を強め、1091年(寛治5年)一族内(義家と弟義綱の郎党どうし)の争いを理由に、朝廷は義家の入京を制止したり、諸国の百姓が義家に田畑を寄進するのを禁じる宣旨を出したりして、義家の勢力が拡大するのを抑え、弟義綱や平正盛を重用するという義家に対する当てつけの抑制が始まる。すなわち、この時期は、白河天皇が退位し、院政を始めた時期が、「後三年の役」の終結する前年の応徳3年(1086年)であり、源氏が天下にその武名を存分に轟かせ、まさに絶頂期を迎えていた時期であり、これがそもそもの元凶となり、白河院政による源氏抑圧策が始まる。
また、院政は、「源氏」の武力を頼みとする摂関家を抑えるためにも、白河院北面武士や種々の部門での登用、昇進において、ことごとく源氏側への妨害や陰謀を巡らし、故意に「源氏」潰しを行い、逆に第2の武力である「平氏」を引き上げるという差別化を始める。義親追討劇も、もしかすると、源氏の勢力分断あるいは減退化を謀る白河院と平正盛の悪巧みによるものかもしれない。こうした白河院政源氏抑圧策の中で、後三年の役(1083年)以後15年間、義家は60歳になるまで不遇な環境に甘んじることになる。
3−2.御落胤説
元来 源氏は父祖の代から摂関家に臣従して来たため、摂関政治から脱出したい(摂関家の勢力を削ぐことに執念を燃やす)院政側にとっては、源氏の勢力の増大は最も好ましくないことであり、ましてや義家の名声の高まりと共に、諸国の在地有力者が競って田畑を寄進するという一躍有力荘園領主の如き様相を見せられれば、これを不快に思い、抑圧しようとするのも自然の成り行きかもしれない。白河天皇が退位し、院政を始めた時期が、「後三年の役」の終結する前年の応徳3年(1086年)であり、この時期に、源氏が天下にその武名を存分に轟かせ、まさに絶頂期を迎えていたことが、そもそもの元凶だったかもしれないが、白河院政による源氏抑圧策が始まる。
院政は、「源氏」の武力を頼みとする摂関家を抑えるためにも、白河院北面武士や種々の部門での登用、昇進において、ことごとく源氏側への妨害や陰謀を巡らし、故意に「源氏」潰しを行い、逆に第2の武力である「平氏」を引き上げるという差別化を始める。こうした「院政と源氏の関係」(白河院政の源氏抑圧策)の中で、後三年の役(1083年)以後、義家は不遇な環境に甘んじることになる。

しかし、15年後の承徳2年(1098年)、義家60歳となるが、陸奥守時代の官物完済として受領功過定を通り、4月の小除目で正四位下に昇進し、10月には院昇殿を許され、院の側近となり、長治1(1104)年に延暦寺悪僧を追討するなどの活躍をしている。約15年間の閉塞状態の後、この急転化の白河法皇の強引な引き上げに、当時の家格に拘る公卿たちの反発もあり、中御門右大臣・藤原宗忠の日記『中右記』(承徳2年10月23日条)には、「義家朝臣は天下第一武勇の士なり。昇殿をゆるさるるに、世人甘心せざるの気あるか。但し言うなかれ」と裏書きされているという。

しかし一方で、院や貴族は、義家の勢力が急激に増大するのに警戒心を強め始め、一族内部の争いを理由に朝廷は義家の入京を制止し、諸国の百姓が義家に荘園を寄進するのを禁じる宣旨を出している。その後も、朝廷はできるだけ義家の勢力が拡大するのを抑えて、平正盛やあえて弟義綱を重用する策略を取ったという。

こうした背景の中で、源為義は平忠盛と同じ永長元年(1096年)に生まれている。しかも、生母不詳である。そして、後三年の役(1083年)より15年後の承徳2年(1098年)、義家60歳となるが、白河法皇による急転化強引な引き上げによって、正四位下に昇進し、院昇殿を許され、院の側近となり、長治1(1104)年に延暦寺悪僧を追討するなどの活躍の場が与えられている。

こうした状況から、下衆の勘繰りであるが、白河法皇から条件付きの強引な要求が提示され、受け入れざるを得なかったのではないか。それが、御落胤(すなわち為義)の受け入れであり、その後の継嗣であったとすれば、生母が不詳であることも頷けることである。そして、義家の子(養子)として妻・中宮亮藤原有綱娘に育てられたとすれば、義親が父・義家に反抗し、西国で乱行を起こしたことや、義親の息子たちと為義が疎遠であったのも当然であり、義光が陰謀に走ったのも河内源氏の家から嫡流の血がなくなることを危惧した、源氏の血を守るための当然の行動であると考えれば、頷けることである。

さらに、付け加えれば、義家が、生前より、次々代への繋ぎとして三男・義忠を継嗣に定めると同時に、次々代の嗣子として嫡系の義親や義国、義忠の実子ではなく、為義にするよう命じたとされるが(『尊卑分脈』)、義家がそこまで為義にこだわった理由は定かでない。義家が亡くなった時、為義は10歳で、義忠の嫡子経国は6歳ぐらいと推定され、義忠が家督を継いだのは23歳の時であることから、義家が生前に次々代の後継を為義に決めたのは、それなりの理由があったはずである。何故、嫡系の他の子孫を差し置いて、為義をわざわざ後継に指名したのか極めて不思議である。これも「御落胤」説を勘ぐる所以である。
▼ 佐々木秀義の生母不詳と継嗣の謎
わが家系の系図(江戸初期編纂)では、経方(源太夫、従五位下、兵部丞)の後は季定(源次太夫、常恵冠者と号す)、秀義(源三、正五位、須藤以下は誤写*)、秀定(正五位上、式部大輔)、行定(正五位上、佐々木宮神主、子孫:真野と称す)が並列記載されている。これは、単に直系以外を省略あるいは簡略記載したことによるためか、あるいは意味があるとすれば、史実が実証できず不明朗で明記できない複雑な後継が存在したことによるためかもしれない。すなわち、この時代、近江佐々木庄では左大臣・雅信の4男・扶義(参議、大蔵卿)流・武家系の佐々木氏と大彦命後裔の土着の豪族・沙沙貴山君との勢力争いによる錯綜があり、また近江の上級領主権の領家職である左大臣・源雅信の長男・時中(公卿、致仕大納言)流・公家宇多源氏(綾小路家、分家:佐々木野氏)の存在もあり、佐々木氏が現地支配を固めるために何らかの姻戚操作(あるいは接ぎ木)をした形跡などを反映しているのかもしれない。また、この時代、白河院以後の院政期でもあり、院政による圧力も考えられる。史実に関する類書において秀義の父親についての記述が混乱しており、以下のように、秀義の出自が所説あり明確でない。

秀義の出自として、1.季定(あるいは秀定、為俊)の実子とする説、2.経方の実子で、季定(あるいは秀定、為俊)、行定は兄弟とする説、3.季定(あるいは秀定、為俊)の実子で、祖父・経方の養子とする説、4.他家から経方の養嗣子として(この場合、季定、行定は義兄弟)、あるいは季定の養嗣子として入る説(4ー1.公家宇多源氏から入ったとする説、4−2.御落胤説)などがあるが、全てにおいて共通することは、生母不詳ということである。

以上の観点から、秀義の出自として、1)わが家系の系図(江戸初期編纂)において、経方(源太夫、従五位下、兵部丞)の後は、子として季定(源次太夫、常恵冠者と号す)、秀義(源三、正五位)、秀定(正五位上、式部大輔)、行定(正五位上、佐々木宮神主、子孫:真野と称す)が並列記載されていることや、2)当時、佐々木庄の領主は、秀義が近侍する左大臣・藤原頼長の父・前関白・藤原忠実で、養父・河内源氏・嗣子源為義は同庄の預所職であり、3)沙沙貴神社の神主となった行定の子孫が近江佐々木庄の下司として現地管理を務めた源行真(行真の末子が井伊真綱で、秀義の長男・佐々木信綱の郎等である)であること「源行真申詞記」、4)経方の長男である季定(幼年は千手丸、為俊、晩年は家定)が元服前より北面の殿上童として白河院の別格の寵愛を受け、白河院没後も鳥羽院の北面において、武者ではなく、常恵冠者舞人陪従として北面を代表する有力者であったこと、5)平正盛の息子・忠盛(清盛の父)と佐々木経方の息子・季定(為俊とされる)が白河院鳥羽院の北面において殿上童として同僚であったこと。すなわち、平正盛と佐々木経方は殿上童の親どうしであること、6)平正盛の娘(忠盛の姉妹)は、近江の上級領家職である公家宇多源氏流・時中(公卿、致仕大納言)の玄孫・源有賢(鳥羽院近臣、宮内卿)の妻であること(ちなみに、他の娘は河内源氏・源義家の嫡嗣・義忠の妻である)、7)その源有賢と高階為家娘との子・資賢(権大納言)の妻は、秀義が近侍する左大臣・藤原頼長(父は前関白・藤原忠実で佐々木庄の領主)の養女(右大臣・徳大寺公能の娘)であり、8)養父・河内源氏の嗣子・源為義は同庄の預所であること、などを考慮すると、秀義(母不詳)の実父・佐々木季定が院北面の常恵冠者・舞人陪従であるため、祖父の佐々木経方が孫を養嗣子にして、武家修行のために源為義に預けたとする説が最も自然ではあるが、領家である宇多源氏の祖・源雅信の長男・時中流佐々木氏(公家宇多源氏)が現地支配を固めるために、秀義を弟・扶義流佐々木氏(武家宇多源氏)の系譜に跡取りとして送り込んだ(すなわち、外からの接ぎ木である)とするならば、佐々木庄の領主である前関白・藤原忠実の子で、秀義が近侍する左大臣・藤原頼長の養女(右大臣・徳大寺公能の娘)の婿であり、公家宇多源氏流・時中(公卿、致仕大納言)の玄孫・源有賢(鳥羽院近臣、宮内卿)の嫡子である資賢(権大納言)の兄弟(宗賢、資長、頼任、実覚など、各母不詳)などが最も有力な養嗣子候補であり、経方が嗣子として迎え、武家修行のために(あるいは武者となるために)、13歳でわざわざ武家清和源氏である佐々木庄の預所・源為義に預けたとする説などが考えられる(系統図:宇多源氏と清和源氏の血縁−佐々木秀義:出自の謎−参照)。

また、これは推論の域を出ないが、秀義の生母が明確でない中、院北面の殿上童として同僚の平忠盛と子の清盛が噂されるように、院の寵愛が別格だった為俊(季定)にも院の女子と子(ご落胤)を下賜され、自分の妻子にし、その子供が秀義であるとするのは、下衆の勘繰りであろうか。この御落胤説であれば、母親のことも含め、すべてに辻褄が合うのだが・・・)。この環境下であれば、秀義が武者修行のため(あるいは武者となるため)、13歳でわざわざ武家清和源氏の源為義の養子(=猶子)となり、娘婿となったことも頷けることである。
(ちなみに、この院政期、同じような現象が平氏佐々木氏だけでなく、河内源氏の家系においても現れている(源為義の項参照)。すなわち、義家は生前に次々代の後継を他の嫡系ではなく、生母不詳の為義にするよう遺言している。これも、「院あるいは朝廷の男色嗜好あるいは政治的策略名門武家家系継嗣へ及ぼした影響」によるものであろうか)

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