郷里の地名・内裏(現・大里)の由来と御所神社・柳の御所|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

「生命と微量元素」講座

郷里の地名・内裏(現・大里)の由来と御所神社・柳の御所

郷里の地名・内裏(現・大里)の由来と御所神社・柳の御所  2019年4月6日

■ 御所神社・柳の御所
御所神社は、大里(だいり)の中心街である北九州市門司区大里戸ノ上1-11-25にあり、ご祭神は安徳天皇平宗盛卿である。現在は戸上神社のお旅所となっているが、この場所はむかし安徳天皇仮御所の跡であったことから、「柳の御所」と呼ばれている。
すなわち、寿永二年(1183年)木曽義仲に都を追われた平家一門は、安徳天皇を奉じて西に逃れ、太宰府に落ちていった。しかし、ここでも、豊後の豪族、緒方三郎惟義が攻め寄せると聞いて、さらに遠賀郡山鹿の城(芦屋町)を経て、豊前国・柳が浦にたどり着き、この地を仮の御所「内裏」(だいり)と定め、 安徳天皇の屋敷など急ごしらえの造営を行った。この「柳が浦」は現在の「大里」のことで、古い記録に「内裏」と書かれているのは、しばらくの間、仮の御所があったからである。
現在の御所神社の社殿は、明治天皇が明治35年(1902年)に熊本へ行幸の際、大里駅御休憩所として新築されたが、翌年地元の要望によって「柳の御所」のあった現在の場所に移築されたものである。この大里での御休憩は、安徳天皇の慰霊が目的だったとされる。

■ 地名・内裏(現・大里)の由来
内裏(現・大里)という地名は、寿永2年(1183年)、この地に安徳天皇の御所(柳の御所)があったことに由来する。「柳の御所」があった場所は、現在の御所神社があるあたりであるが、昔は付近一帯を柳の内裏といい、のちに内裏村となり、現在の大里という地名が生まれたといわれる。ちなみに、享保の頃、この地に海賊が出没し、内裏の海に血を流すのは恐れ多いとして大里に変更されたという。
<中学同窓・松崎泰士君撮影>

内裏(現・大里)の由来と御所神社・柳の御所

御所神社・柳の御所

内裏(現・大里)の由来と御所神社・柳の御所

境内には、清盛の弟忠度・時子の弟時忠・清盛の甥経正の歌碑がある。
♪ 都なる 九重の内 恋しくは 柳の御所を 立ち寄りてみよ   平忠度

内裏(現・大里)の由来と御所神社・柳の御所

柳 の 御 所
寿永二年(1183)木曽義仲に都を追われた平家一門は、安徳天皇を奉じて西に逃れ、太宰府に落ちていった。しかし、ここでも、豊後の豪族、緒方三郎惟義が攻め寄せると聞いて、さらに遠賀郡山鹿の城を経て、豊前国柳が浦にたどりついた。この柳が浦が現在の大里のことで、古い記録に「内裏」と書かれているのは、しばらくの間、仮の御所があったからである。現在、戸上神社のお旅所となっているこの地がむかしの仮御所の跡であろうと伝えられて「柳の御所」と呼ばれている。境内の歌碑は栄華を極めた都の生活をしのんで平家の公達が詠じた歌である。

♪ 都なる 九重の内 恋しくは 柳の御所を 立ち寄りてみよ     薩摩守 忠度
♪ 君住まは ここも雲井の 月なるを なほ恋しきは 都なりけり     大納言 時忠

              参考文献 平家物語(応永書写延慶本) 北九州市 北九州市教育委員会

内裏(現・大里)の由来と御所神社・柳の御所

中央の由緒書きには、以下のような平家の公達が詠んだ歌のことが書かれている。

九月十三夜の歌読の事
寿永二年(1183年)安徳帝を奉じた平家一門は柳ヶ浦に上陸し柳御所を造営した。九月十三夜の歌宴を此処で催し次の歌を詠んでいる。

♪ 打解けて寝られざりけり楫枕今宵の月の行方清むまで   大臣殿 宗盛
♪ 月を見し去年の今宵の友のみや都に我を思ひ出づらむ   薩摩守 忠度
♪ 恋しとよ去年の今宵の終夜月みる友の思ひ出られて   修理太夫 経盛
*楫枕(かじまくら):船中で寝ること、船旅

清経、柳が浦へ入海
重盛殿三男左中将清経は柳御所より小舟に乗り沖に出て「哀れはかなき世の中よいつまで有るべき所とて」と静かに念佛して波の底に沈んでいった。
右の歌碑:
♪ 分けてきし 野辺の露とも 消へずして 思はぬ里の 月をみるかな    経正卿
平経正は、平経盛の長男で、平敦盛の兄に当たる)

左の歌碑:
♪ 君住めは ここも雲井の 月なるを なお恋しきは 都なりけり     時忠卿
平時忠は、平清盛の継室時子の弟に当たる)

内裏(現・大里)の由来と御所神社・柳の御所

由緒書き「キリメン様の石室」
「キリメン様の石室」の由緒書き
鳥居を潜った左側、大里郷土資料室の前に石室があり、この石室の由緒書きによると、石室には、文化2年(1805年)の銘があり、木舟社キリメン様と呼び親しんでいた村人たちが神様を保護するために建立したものと思われる、と記されている。
平家物語源平盛衰記に記された「柳の御所」の所在地を調査のために旧柳村を訪れた佐野経彦翁は、文久3年(1862)「柳御所考」を著し、この石室の中に、木像二体御神像が安置され、一つは安徳天皇、他は平宗盛であり、その製作時期は文治・建久(1185〜1198年)の頃と見えると記している。その木像二体の御神像は、現在、「戸上神社」に安置され、ご神体として納められている。
内裏跡の聖地は、後々村人達に踏み汚されぬように樹木が植えられ、後年には「疫神の森」、「木舟の森」と呼ばれたが、これは当時が仇敵・源氏の世であったため、天皇の大御称を隠し、密かに祭祀したためと思われる。
2019.4.06 15.10〜撮影

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