旧大阪商船(商船三井ビル)(国の登録有形文化財)|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

「生命と微量元素」講座

レトロ門司」復興への道

旧大阪商船(商船三井ビル)(国の登録有形文化財)

旧大阪商船(商船三井ビル)

■ 歴史
旧大阪商船(商船三井ビル)は、北九州市門司区港町にあり、明治17年1884年)に設立された海運会社・大阪商船門司支店として、大正6年1917年)に建設された歴史的建造物である。国の登録有形文化財に登録されている。

大阪商船は、下関や博多、徳島、長崎、熊本、広島に支店を持ち、海運輸送を中心に業務を拡大した。明治22年1889年)、門司港が石炭、米、麦、麦粉、硫黄を扱う国の特別輸出港に指定されたことを契機に、明治24年1891年)に門司営業所として開設された。開設後の輸出入も順調に伸び、明治30年1897年)には赤間関支店所属から独立して門司支店に昇格した。

修復された現在の旧大阪商船(のちの商船三井ビル)は、大阪商船の門司支店として、大正6年1917年)に建設されたものであるが、当時の門司港は、大陸航路の一大拠点であり、旧大阪商船のビルも日清戦争後には朝鮮や台湾、その後は大連や中国大陸への航路の拠点となり、昭和10年(1935年)頃が最盛期であったという。
また、当時の大阪商船は、店員57人、揚げ荷40万トン、乗船客11万人、上陸客17万人を数え、揚げ荷量は日本で5番目と国内有数の海運会社へと発展しており、また130隻の商船、53万トンの船舶も有していて、世界で第8位の船舶会社でもあったという。

大正6年1917年)建設の社屋は、木造洋風2階建て(一部はレンガ型枠コンクリート造)で、建物の角に八角型の塔屋がある。塔屋のデザインは、ドイツ・オーストリアで開花したゼツェシオン(過去の様式から分離し、生活や機能を重視した新しい造形芸術の創造を目ざした革新運動)様式で纏められており、屋根に設けられた塔の隅角部にある2つの大きなアーチ窓とその上部の八角型の塔屋が特徴的である。
設計したのは、大阪の建築士の草分けと言われた河合幾次であるが、建物の西と北面の道路側は、レンガ型枠の鉄筋コンクリート造、木造モルタル仕上げで、正面と背面が異なる珍しい構造である。鮮やかなオレンジ色の化粧レンガと白い石の帯が調和した外観とヨーロッパ風の八角型塔屋を持ったこの建物は、当時の門司で一番高く、門司港のランドマーク的な存在であった。

1階には待合室と税関の事務所があり、2階は仕切りのないワンルームで利用されていた事務室。3階は電話交換室や便所、倉庫があった。また、竣工当時は、建物の前面道路のすぐ横に海があり、利用者は目の前の桟橋から横付けされた船に直接乗り込んでいたという。隣には、旧門司水上警察、そして旧日本郵船門司支店と3つの近代建築が並んでいて、門司港の繁栄を象徴していたという。当時、客船だけでも、門司港からは1ヶ月の間に台湾、中国、インド、欧州へ60隻もの客船が出航し、大阪商船ビルはその拠点の一つとして、1階は待合室、2階はオフィスとして使われ、外国への渡航客で賑わっていたという。

昭和39年1964年)、大阪商船三井船舶が合併したため、建物は「商船三井ビル」と呼び名を変え、平成3年1991年)まで使用された。同年、北九州市が買い取り、平成6年1994年)、失われていた外壁の両端にあった装飾(ペディメント)、軒廻りのパラペット、屋根窓(ドーマー)、1階の外部通路などが復元された。平成11年1999年)7月19日、登録有形文化財に登録された。また、平成19年2007年)11月30日には、近代化産業遺産(北九州炭鉱 - 筑豊炭田からの石炭輸送・貿易関連遺産)に認定された。

以下、復元保存を実現させた行政側の努力に敬意を表しエピソードを交えて紹介する。

旧大阪商船

旧大阪商船

旧大阪商船

旧大阪商船(商船三井ビル)(国の登録有形文化財)
■ 復元・保存への道
別稿『「レトロ門司」復興への道』で記述したように、門司港レトロの復興は、昭和62年12月、竹下首相の「ふるさと創生」政策の一環として自治省で創設された「ふるさとづくり特別対策事業」(ふる特)への申請、そして昭和63年6月24日の採択に始まる。
▼ 解体・消滅の危機
当時、門司港地区歴史的建造物はどれもが所有者の都合で売却処分取り壊しの危機に瀕していた。門鉄会館(旧門司三井倶楽部)の所有者である国鉄は、民営化に際し資産の処分を急いでおり、売却処分する方針を市教委に連絡してきた。後継の国鉄精算事業団も同じく処分を急ぐ意向だった。同じころ、商船三井ビル旧門司税関も取リ壊しの危機にあった。一方、これら歴史的建造物の解体・消滅の危機を懸念する市民からは、末吉市長や市議会議長宛の「門鉄会館の管理、保存について」の陳情書や住民2385人の署名による請願書、さらには市民団体「門司まちづくり21世紀の会」による「門司港・西海岸地区整備構想」や「門司港・和布刈地区の整備」の提案要請などが提出され、門鉄会館を始めとする歴史的建造物の保存をめぐる動きが活発になって来た。しかし、市は財政が苦しく、保存に乗り出すだけの有効な対応策も見出せず、窮地に陥っていた。
▼「ふる特」採択に救われた旧大阪商船(商船三井ビル)
そんな最中、天の啓示のように、竹下首相の「ふるさと創生」政策の一環として自治省が「ふるさとづくり特別事業」を創設すると公表した。市はこれに飛びついたものの、ハコモノは対象にならないとされた。しかし、本市財政局長に出向後、本省に戻っていた石井窪一氏の格段の配慮で、「門鉄会館の移築を含む門司港レトロ計画」は「ふる特」に採択され、事業を始めることができた。すなわち、この採択によって、門司港地区の歴史的建造物復元や保存が、門司港レトロ事業の中に包含することで可能になった。もし石井氏の応援がなかったならば、門鉄会館の保存はもちろん、門司港レトロも開始できなかったかもしれない。さらに、門鉄会館が「ふる特」の対象にならず復元ができなかったとしたら、旧大阪商船ビルも姿を消していただろう。本来なら「ふる特」の枠に入れない「ハコモノの復元保存」を実現するために、関係部局に相当の根回しをしてくれたに違いない。
▼ 自治省と建設省、企画局と港湾局の計画が正面衝突
ふる特」は、門司港地区の歴史的建造物の復元や保存を包含する「門司港レトロ事業」の救いの神である。しかし、当時、自治省創設の「ふる特」は、建設省先行の門司港ポートルネッサンス計画や守備範囲(縄張り)を侵犯するものであるとして、中央では自治省と建設省が反目していた。当然、北九州市でも連動して港湾局と企画局との間で軋礫(企画局と港湾局の計画が正面衝突)が生じていた。

この難しい時期に、中学同窓の稲佐重正君・湾局東部港営事務所長(港湾局開発課係長)は門司港全体の計画策定を任され、当初より計画上対立していた先行の港湾局ポートルネッサンス計画と後行の企画局レトロ計画「ふる特」対象)を接合させ、(結局は後行の企画局のレトロ計画(「ふる特」が主となるが)、事業の円滑化に尽力している。道路計画としての跳ね橋旧門司三井倶楽部の復元、大連の国際友好記念図書館(大連記念館)、さらに旧門司税関ビルの復元を担当、その後、門司港ホテルの建設も計画担当している。
▼ 館内施設
現在の旧大阪商船(商船三井ビル)は、1階はギャラリーやカフェとして、2階は貸ホールとして使用されている。1階には、市内の作家たちの作品を展示する門司港ブランド雑貨店「門司港デザインハウス」と、北九州市出身の漫画家・わたせせいぞうのギャラリー「わたせせいぞうと海のギャラリー」があり、さらに飲食店としてオープンタイプの「カフェ・マチエール」がある。2階には1階から移った多目的ホール「海峡ロマンホール」があるが、通常は開放されていない。
<資料:中学同窓・稲佐重正君提供>
<写真:中学同窓・田中文君撮影>
参考資料:1.ルネッサンスの知恵 第3号 門司港レトロヘの道すじ 財団法人北九州都市協会(平成14年2月)、2.北九州市新・新申期計画 北九州市(昭和55年4月)、3.ポート門司 21 北九州市職員研修所(昭和57年)

PageTop