父子とされる季定・秀義の系図における並列表記の謎|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

「生命と微量元素」講座

先祖の足跡を訪ねて

父子とされる季定・秀義の系図における並列表記の謎

季定は秀義の実父にあらず!

わが家系の系図(江戸初期編纂)では、佐々木経方(源太夫、従五位下、兵部丞)の後は子として季定(源次太夫、常恵冠者と号す)、秀義秀定(正五位上、式部大輔)、行定(正五位上、佐々木宮神主、子孫:真野と称す)が並列表記されている。しかし、『尊卑分脈』など宇多源氏流の史書では、季定と秀義は父子であると記されている。季定秀義の父子関係が事実ならば、この並列表記は何を意味するのか、またわが系図には、季定の注記に「常恵冠者」と記載されていることから、嫡男ならば武家宇多源氏の棟梁と成り得るのか、などに違和感や疑問を覚え、「常恵冠者」を入口にして調べてみた。

佐々木経方の長男とされる季定が「常恵冠者」と称される北面殿上童陪従舞人ならば、平為俊が浮かび、季定と為俊が同一人物ならば、為俊は幼名を千手丸、晩年は家定と改名か。元服前より「童子平千手丸」の童名で院北面に昇殿(寛治2年、1088年)し、北面殿上童として白河院の別格の寵愛を受ける。童ながら初官を左兵衛少尉に直任され(寛治4年、1090年)、その2年後には「院辺追捕賞」と称して検非違使という重職に補任されている(寛治6年、1092年)。武者としての期待ではなく、行幸の花としての補任であり、「常恵冠者」と称される所以である。そして、康和2年(1100年)には従五位下に叙爵され、宿官として下総介に補任されており、嘉承3年(1108年)には、検非違使の功績で駿河守に補任されている。

わが家系の系図と同様に、季定の項に、『尊卑分脈』宇多源氏流では「常恵冠者」、佐々木系図では「常盤恵冠者」の名称が見え、武者としてではなく、陪従舞人として、また行幸の花として寵愛されたことが分かる。のちに源季定と改名したというが、とくに、『尊卑分脈』宇多源氏流などでは、季定の名前が頻出する。(季定は家定の誤写とする説もある)
白河院没後の大治4年(1129年)、鳥羽院においても引き続き平忠盛らと共に北面に列しており、長承3年(1134年)には、為俊改め、家定の名で、賀茂行幸に四位陪従(賀茂神社・石清水八幡宮などの祭儀や行幸で、神楽の管弦・舞・歌などに従事する役職)としての姿が見え、武者ではなく、舞人陪従として北面を代表する有力者になったという。当然ながら、武者である武家宇多源氏の棟梁として家督を継ぐことは期待されていなかったはずである。

鎌倉幕府創設を支えた佐々木秀義とその息子たち

鎌倉幕府創設を支えた佐々木秀義とその息子たち

鎌倉幕府創設を支えた佐々木秀義とその息子たち

我が家系伝来の宇多源氏流(近江源氏・佐々木源氏)家系図(⇒ 季定・秀義)

北面の花「常恵冠者」と法皇の男色相手「御寵童」

平安時代末期、天皇が息子や孫に帝位を譲って、太上天皇(=上皇)や法王となったあとも、院政を敷いて権勢を振るった院政期、天皇や公家の間では、男色が盛んに行なわれており、白河院以後、鳥羽院後白河院たち代々の院も、女色男色の両方を嗜んだことが知られている。白河法皇は、院政開始後、院御所の北面を詰所とし、上皇の側にあって身辺の警護あるいは御幸に供奉させる院独自の武士集団・北面(廷臣・衛府の官人から成る近衛兵)を創設し、北面の武士として院に近侍させた。

前述したように、白河院以下、代々の院たちは、男色を好んだので、自然とこの中には、容色に優れた者が北面の武士に選ばれ、院の寝所に侍り、院の寵愛を受ける、いわゆる法皇の男色相手の「御寵童」が生まれた。その最初の「御寵童」が、経方の長子とされる為俊(幼名・千手丸、季定、晩年家定)であり、童より白河院北面に童殿上し、白河院の別格の寵愛を受けたのである。そして、北面において陪従舞人として、また行幸の花として寵愛され、「常恵冠者」と称されたのである。

ちなみに、平清盛の父にあたる忠盛も院北面の殿上童として為俊と同僚であるが、白河院の女子と子(ご落胤)を下賜され、自分の妻子にし、その子供が清盛であるという噂がある。院の寵愛が別格だった為俊(季定)にも院の女子と子(ご落胤)が下賜され、その子が秀義とするのは、暴言極まりない下衆の勘繰りであろうか。

秀義の出自について

秀義の出自については、「佐々木秀義:鎌倉幕府創設を支えた佐々木秀義とその息子たち」のページ参照

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