「佐々木秀義や藤原秀衡の母が安倍宗任女」は誤記載か!|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

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先祖の足跡を訪ねて

「佐々木秀義や藤原秀衡の母が安倍宗任女」は誤記載か!

史書記載の「佐々木秀義や藤原秀衡の母が安倍宗任女」は年代的に不合理!

明応本』、『平家』、『東鏡』『盛衰記』などの記事の中には、伝承・史料から拾い合わせ、時には改変して掲載したものもある。奥州藤原氏と佐々木氏の縁戚を物語る伝承・史料もその1つで、歴史を紐解く上で、糸口としての伝承的価値は極めて重要であるが、年代的考察に乏しく、史実的には不正確で、混乱を招いている事例である。
▼ 考察
1.明応本佐々木系図』には、以下のように、(秀義)「六条判宮為義猶予、佐々木三郎」「母安倍宗任女」とある。
(秀義)「六条判宮為義猶子(盛衰記の「左馬頭義朝の養子」は誤写)、佐々木三郎」「母安倍宗任女
(定綱)「従五下、太郎」「使左衛門尉、母下野宇津宮(源為義娘)」「近江長門石見隠岐四ヶ国守護」(括弧内の「源為義娘」が正しい)
(経高)「号蒜間中務丞、佐々木次郎、法名経蓮」「住相模滋()谷、母同上」「淡路阿波土佐等守護」(続群書類従にある括弧内の「渋」が正しい )
(盛綱)「号加地三郎兵衛尉、佐々木三郎」本名秀綱、住相模俣野、備前児島渡了」「伊予讃岐守護」「法名西念」
(高綱)「佐々木四郎、左衛門尉」「母同上」「籠居高野山」「備中備後安芸周防因幡伯耆出雲等守護」
(義清)「従五位下左衛門尉、隠岐守」「佐々木五郎」「母大庭権守景宗女」 云々。

2.『東鏡』(治承4年8月9日条)割注には、以下のように、「秀義の媒母の夫が藤原秀衡である」とある。
「有近江国住人佐々木源三秀義者、平治逆乱時、候左典厩御方、於戦場掲兵略、而武衛坐事之後、不奉忘旧好号、不諛平家権勢之故、得替相伝地佐々木庄之間、相率子息等、恃秀衡〔秀義媒母夫也〕、赴奥州、至相模国之刻、渋谷庄司重国感秀義勇敢之余、令之留置之間、住当国、既送二十年畢、此間於子息定綱・盛綱等者、所候干武衛之門下也 云々。」

3.また、『東鏡』(文治5年9月17日条)の毛越寺記事「藤原基衡室」の割注には、「安倍宗任女」とある。

安倍宗任女」の出自については、これ以外に見つけ出せないが、これらの記事をそのまま受け入れるとすれば、「秀義の母が安倍宗任女で、母の姉妹も安倍宗任女でかつ秀衡の室であり、秀衡の父の基衡の室が安倍宗任女でかつ秀衡の母であるかもしれない。すなわち、秀衡にとっては、妻も母も安倍宗任女ということになる。また、秀義にとっては、秀衡は10歳下の叔父ということになる。」という相関図が描かれる。しかも、以下のように、

「秀義の母あるいは媒母が、父・宗任(1032年生れ)50歳の子とすれば、秀義(1112年生れ)は母が30歳の時の子となるが、媒母(母の姉妹)の夫が基衡(1102年生れ)ならば、妻の年齢が20歳も上となり、子の秀衡(1122年生れ)は媒母40歳の時の子となる。媒母(母の姉妹)の夫が秀衡(1122年生れ)ならば、妻の年齢が40歳も上となる。また、母あるいは媒母が父・宗任30歳の子とすれば、秀義は母が50歳の時の子となるが、媒母(母の姉妹)の夫が基衡(1102年生れ)ならば、妻の年齢が40歳も上となり、子の秀衡(1122年生れ)は叔母60歳の時の子となる。媒母(母の姉妹)の夫が秀衡(1122年生れ)ならば、妻の年齢が60歳も上となる。」

ということになり、年代的に無理な結び付けをしていることが分かる。そして同時に、史実自体が疑われることになる。

佐々木秀義や藤原秀衡の母

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