君が代発祥の地・大宮神社と入来神舞|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

「生命と微量元素」講座

君が代発祥の地・大宮神社と入来神舞

十二人剣舞に見る隼人舞と君が代の発祥

■ 君が代発祥の地・大宮神社
▼ 由緒(沿革)
大宮神社は、平成16年の市町村合併により薩摩川内市の一部になった入来町(鹿児島県薩摩川内市入来町)日之丸地区にある神社で、近江国坂本(現在の大津市)の日吉大社(日吉・日枝・山王神社の総本社)の支社である。約750年前の鎌倉時代中期、文永の役(文永11年、1274年)・弘安の役(弘安4年、1281年)の2度にわたる蒙古襲来を契機に、入来の地頭だった渋谷氏の家老種田氏が、当時、朝野の尊信が厚かった日吉山王を勧進して以来、入来院・清色城(入来院氏本拠の居城)内緒社の総社(入来内5社の筆頭)として領民から尊崇されて来た神社である。古跡帳には、当初、牟田多の久木塚の川沿いに鎮座されたが、前川内川の水害に遭うようになったため、十一代領主・入来院重豊の代(15世紀末から16世紀初頭)に、現在地に遷座されたと記されている。社殿の改築記録は、天明6年(1786年)定矩時代と大正7年のものがあり、現社殿は大正時代に改築されたものである。明治4年、郷社に列格された。なお、入来院氏の家老種田氏の氏社・梶山権現は、摂社(境内社)として奉られ、種田氏の家紋「丸に剣梅鉢」が刻まれている。

現地看板には、以下のように沿革などの説明文が記されている。

大宮神社

祭神:大己貴命(また大物主命・大国主命ともいう)
社格:鎌倉時代以来 入来院の総社、明治四年から鄉社
祭日:祈年祭 2月19日
例祭:11月23日と大晦日

沿革
この神社は近江国坂本に鎮座する日吉神社の支社として祀られて来ました。日吉神社は山王権現ともいわれ、古来朝野の信仰がきわめて深かった名神です。わが入来では鎌倉時代に入来院地頭渋谷氏が勧請して以来七百余年、入来院内諸社の総社とし、産業生産、縁結びの神として郷民に厚く尊崇されて来ました。祭時の神楽舞の中には「君が代」の歌が歌い継がれて来ているので、今の国歌の源泉は入来神楽にあるといわれて、映画にもなり、全国的に注目されるようになりました。

大宮神社

君が代発祥の地「大宮神社」
2018.12.31 12.18〜撮影
■ 入来神舞
上記の如く、日之丸地区にある「大宮神社」は、鎌倉時代より入来院・清色内5社の筆頭(総社)に格付けされ、毎年この神社の例祭(11月23日と大晦日)においては、入来独持の「入来神楽」を奏し、神舞を奉納している。この入来神舞(「いりきかんんめ」または「いりきかんべ」)独特の舞は、種類によって異なるが、1〜12名の男女で構成され、楽は太鼓1名、笛1名で行われる。15世紀から16世紀前半にかけては、入来院氏の勢力が最も拡大した時期で、戦国大名化し、社寺の復興や建造が盛んに行われ、念仏踊りなどの民俗芸能も盛んになった時代である。入来神舞もこの時代の成立ではないかといわれており、古代入来隼人の隼人神楽、中世渋谷氏の伝えた上世雅楽、その後流入した出雲神楽などが混成されて、天の岩戸神話を演ずる現代の入来神舞が生まれたものと推定されている。

大宮神社の例大祭に奉納される「入来神舞」の舞の種目は36番あり、5種の神楽曲の内いずれかを使って舞われる。舞は大別すると、1)古代以来の壤災呪儀的舞(巫女舞、火の神舞、剣舞など)、2)稲作儀礼に関する舞(杵舞、田の神舞など)、3)岩戸神楽舞(天の岩戸の神話劇)に分けられる。神舞36番中22番「12人剣舞」は、奈良時代の前後にかけて、隼人族が皇宮12門の警衛に在ったことから、12人剣士をもって衛門隼人を象徴したものとみられる。
すなわち、この大宮神社は古代隼人舞の原形を伝承する神社であり、ここで奉納されている「入来神舞」は天の岩戸神話を演じるものではあるが、その中の「12人剣舞」では、舞人が左手に太刀を持って登場し、「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」と国歌「君が代」を声高らかに朗詠する。このことから、国歌「君が代」の由来を入来神舞の中に窺い知ることが出来るとして、また大宮神社を「君が代発祥の神社」として注目を集めている。昭和49年(1974年)に、入来町無形民俗文化財に指定された。当時より神楽と神舞が毎年11月23日と大晦日に奉納されているが、大戦後に消滅の危機に瀕したこともあり、地元では昭和45年(1970年)に神舞保存会が結成され、後継者の育成や継承に努めている。
▼ 君が代発祥の地
神社の前には「君が代発祥の地」に関する看板があり、社殿(拝殿、本殿)の横には、「君が代発祥地」の説明板がある。以下のように記されている。

君が代発祥の地
ここ、大宮神社に、昔から奉納されている神舞の中で「君が代」を歌います。これが、明治十三年に歌い始められた、国歌「君が代」の基になったのです。  入来町郷土史研究会
■ 入来神舞の代表的な演目
▼ 新嘗祭(11月23日)
最初は奉納に先立ち、入来神舞の舞台での祈祷から始まる。舞台の次は社殿にて祈祷を行う。そして、その日の入来神舞の各演目の説明がある。

@ 猿女舞(さるめまい)
巫女が鈴と扇を持って踊る。今回は4人で舞うが、本来は2人で行う舞。災いをなくす踊りといわれている。
A 三隈舞(みくままい)
扇を持った巫女が舞う。2人で舞う場合もあるが、本来は4人で舞う。
B 四方鬼神(しほうきじん)
青、赤、白、黒の4人の鬼神が順番に登場する。それぞれ東西南北と春夏秋冬の四季木火金水を象徴している。最初は東方鬼神。青の衣装を着て、弓と矢を持った鬼神「青龍」。東方鬼神は春を表し、木の象徴といわれる。2人目は南方鬼神。赤の衣装を着て、なぎなたを持った鬼神「朱雀」。南方鬼神は夏を表し、火の象徴といわれている。3人目は西方鬼神。白の衣装を着て、刀を2本持った鬼神「白虎」。西方鬼神は秋を表し、金の象徴といわれる。
4人目は北方鬼神。黒の衣装を着て、熊手と斧を持った鬼神「玄武」。北方鬼神は冬を表し、水の象徴といわれている。弓や刀を持った鬼神が災いを払う「四方鬼神」舞であるが、鬼神は5人出て来る。最後は中央鬼神である。中央鬼神は黄色の衣装を着て、扇とぶちを持って登場する。各鬼神が隅に座り、中央鬼神が舞う。
C 十二人剣舞
奈良時代に隼人族が皇宮12門の守りに在ったことに由来すると言われ、この中で「君が代」の歌詞が詠われることから、大宮神社は君が代の発祥と言われている。後述の「十二人剣舞と君が代」を参照。
D 杵舞と田呪い神舞
杵舞は稲作の豊穣を祈願する舞。杵(きね)を持った2人が田起しや杵つきなど稲作の様子を舞う。杵舞の途中で田の神が登場。この緑の仮面の人物が田の神。田の神舞は、皆が知らない間に、田の神が昼も夜も毎日、田んぼを見回りしている様子を舞う。
➅ 火之神舞
火之神舞は、夜のとばりの中、火がついている松明を持って舞う。後述の大晦日の項を参照。
▼ 大晦日(12月31日)
大晦日の入来神舞は、23時半から元旦の2時頃まで行われる。四方鬼神十二人剣舞の他に、「火之神」舞が入る。火之神舞は、火がついている松明を持って舞う。夜の帳の中、松明の光が幻想的である。1日午前0時を迎えると、神職や氏子が神楽剣舞巫女舞や、五穀豊穣を祈って杵を手に行う杵舞といった独特な舞台を見せ、新年を祝う。
<中学同窓・松崎泰士君写真資料提供>

入来神舞

入来神舞

猿女舞(さるめまい):巫女が鈴と扇を持って踊る。

猿女舞(さるめまい)

猿女舞(さるめまい)

東方鬼神:青の衣装を着て、弓と矢を持った鬼神「青龍」。東方鬼神は春を表し、木の象徴といわれる。

入来神舞

入来神舞

入来神舞

南方鬼神:赤の衣装を着て、なぎなたを持った鬼神「朱雀」。南方鬼神は夏を表し、火の象徴といわれている。

入来神舞

入来神舞

入来神舞

西方鬼神:白の衣装を着て、刀を2本持った鬼神「白虎」。西方鬼神は秋を表し、金の象徴といわれる。

入来神舞

入来神舞

中央鬼神:黄色の衣装を着て、扇とぶちを持って登場する。各鬼神が隅に座り、中央鬼神が舞う。

入来神舞

入来神舞

火之神舞:火がついている松明を持って舞う。夜の帳の中、松明の光が幻想的である。

入来神舞

入来神舞

入来神舞

十二人剣舞:奈良時代に隼人族が皇宮12門の守りに在ったことに由来すると言われ、この中で「君が代」の歌詞が詠われることから、大宮神社は君が代の発祥と言われている。

入来神舞

入来神舞

2019.1.1 0.24〜撮影
■ 十二人剣舞・隼人舞と君が代
<以下の項は松崎泰士君寄稿>
古代日本において南九州には「隼人」と呼ばれる人々と、「熊襲」と呼ばれる人々が住んでいた。隼人が初めて具体的な姿で歴史上に登場するのは、天武天皇11年(684年)日本書紀の記事である。朝廷は隼人を一種の「異民族」として扱った。天皇の徳の高さ、権力の大きさ、そして支配範囲の広がりを示すためには、はるばる貢物を持ってやってくる「異民族」が不可欠であったのである。
奈良時代に、政府は隼人たちに朝貢させ、種々の儀式に参加させた。しかし、当時奈良への道程は片道40日以上(他の資料では3〜4か月)を要したという。そして、隼人たちは都周辺に集落を作って定住し、様々な労役に就き、朝廷の警備をさせられた。貢物と行程の食料を持っての歩行は、6年交代で、これが廃止されるまで29回(約200年)も繰り返された。もともと南九州地方は、シラス土壌で、米作には向かなかった。持統3年(689年)の朝貢の記録(日本書紀)では、隼人174人に布50丈、牛皮6枚、鹿皮50枚を朝貢させたとある。
衛兵となった隼人は、独特の制服に隼人の盾と矛を持ち、「ウオー、ウオー」と犬吠しながら宮殿を守り、行幸に従った。また、祭りでは隼人舞を踊り、相撲を取ったりして儀式に華を添えた。この隼人舞の中で、鬼神が現れて「君が代」を朗詠する。「君が代」の歌詞は古今和歌集(901年)に詠み人知らずとして収録された和歌「わが君は千代に八千代に・・・」がもとになっている。この隼人舞が12人剣舞として入来神舞に伝承されている。延暦19年(800年)に律令制度の諸原則が適用され、5年後に朝貢のために都に滞在していた隼人たちが帰国する。

<付記1>
卒場石(ソベシ)の諏訪神社は、中世の頃から江戸初期まで山王神社であったが、近世藩政時代に入ると、武家の諏訪神重視により承応4年(1655年)には諏訪山王神社と社号を改めた。しかし、諏訪講が盛大になるにつれ、本来の山王神は忘れられ、諏訪神の片隅の藪影に小型石塔の形でひっそりと祀られていた。入来の神社で二つの鳥居はここだけである。隼人神楽の研究で著名な志賀剛博士によれば、この山王神社がこの地方の隼人神楽発祥の地であるとしている。

<付記2>
君が代の元の歌詞は「わが君は」であり、6〜8年朝貢の役務で老父母、妻子を故郷に残し、働き手を奪われた人々に想いを馳せ、故郷の繁栄、長寿の願いを込めた歌であったが、明治維新後、国歌制定の必要に迫られた際、鹿児島藩出身の大山巌らがこの古歌を国歌と選定。冒頭を「天皇の治める代」という意味の「君が代」に改変し、イギリス公仕官のフェントンが作曲を担当したが、洋風のメロデイーだったため、宮内庁雅楽課の林広守らが編曲して、1880年に現在の「君が代」が完成した。

PageTop