旧門司税関|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

「生命と微量元素」講座

レトロ門司」復興への道

旧門司税関

旧門司税関

■ 歴史
旧門司税関は、明治22年(1889年)、門司港が石炭、米、麦、麦粉、硫黄を扱う国の特別輸出港に指定されたことで、長崎税関の出張所として設置された。開港後の輸出入も順調に伸び、明治34(1901)年には貿易額で長崎港を上回るようになる。大阪に次いで全国第4位と国内有数の貿易港へ発展したことから、明治42年(1909年)11月5日に長崎税関から独立し、日本で7番目の税関として発足した。旧門司税関の初代庁舎は、完成してすぐに焼失したため、明治45年、同じ場所に2代目庁舎が建設され、門司税関庁舎として昭和2年まで使用された。

この建物はイギリス積みという工法で建設され、壁の厚さが50cm近くあり、赤煉瓦造り瓦葺2階建構造になっている。明治建築界三大巨匠の一人とされる著名な建築家・妻木頼黄(つまきよりなか)による指導のもと、建築技師・咲寿栄一によって設計されたもので、妻木が関与した現存する数少ない建築物の一つである。

しかし、税関庁舎として使用された期間は短く、税関が西海岸へ移転することとなったため、3代目の庁舎となる旧合同庁舎が完成する昭和2年(1927年)まで使用された。2代目庁舎は民間へ払い下げられ、事務所ビルとして利用された。さらに、昭和20年(1945年)の門司空襲によって屋根がなくなり、戦後は窓を塞いで倉庫(松庫ビル)に転用。その際に、海側両翼部および内部2階の床組から内装に至るまでのすべてが撤去され、建築当初の面影もないほどに荒廃していた。

晩年は屋根が落ち廃墟状態になるなど解体まで計画されたが、妻木頼黄の監修による建物で現存する希少なものであり、明治時代の赤煉瓦建築として極めて優れていることから、当時の北九州市港湾局が建物を取得。門司港湾地域の観光復興と活性化のため、平成3年(1991年)から4年の歳月をかけて建物の復元作業が実施された。平成7年(1995年)3月25日には、門司港活性化のためレトロ事業の一つとして改修され、他の施設とともに「門司港レトロ」がグランドオープン。「旧門司税関」として往時の姿を取り戻した。

以下、復元保存を実現させた行政側の努力に敬意を表しエピソードを交えて紹介する。

旧門司税関

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旧門司税関

旧門司税関
■ 復元・保存への道
別稿『「レトロ門司」復興への道』で記述したように、門司港レトロの復興は、昭和62年12月、竹下首相の「ふるさと創生」政策の一環として自治省で創設された「ふるさとづくり特別対策事業」(ふる特)への申請、そして昭和63年6月24日の採択に始まる。

当時、門司港地区歴史的建造物はどれもが所有者の都合で売却処分取り壊しの危機に瀕していた。門鉄会館旧門司三井倶楽部)の所有者である国鉄は、民営化に際し資産の処分を急いでおり、売却処分する方針を市教委に連絡してきた。後継の国鉄精算事業団も同じく処分を急ぐ意向だった。同じころ、商船三井ビル旧門司税関も取リ壊しの危機にあった。
しかし、市は財政が苦しく、保存に乗り出すだけの有効な対応策も見出せず、窮地に陥っていた。そんな最中、天の啓示のように、自治省が「ふるさとづくり特別事業」を創設すると公表した。市はこれに飛びついたものの、ハコモノは対象にならないとされた。しかし、本市財政局長に出向後、本省に戻っていた石井窪一氏の格段の配慮で、「門鉄会館の移築を含む門司港レトロ計画」は「ふる特」に採択され、事業を始めることができた。すなわち、この採択によって、門司港地区の歴史的建造物の復元や保存が、門司港レトロ事業の中に包含することで可能になった。もし石井氏の応援がなかったならば、門鉄会館の保存はもちろん、門司港レトロも開始できなかったかもしれない。

しかし、当時、自治省創設の「ふる特」は、建設省先行の門司港ポートルネッサンス計画守備範囲(縄張り)を侵犯するものであるとして、中央では自治省建設省が反目していた。当然、北九州市でも連動して港湾局企画局との間で軋礫(企画局と港湾局の計画が正面衝突)が生じていた。

この難しい時期に、中学同窓の稲佐重正君・湾局東部港営事務所長(港湾局開発課係長)は門司港全体の計画策定を任され、当初より計画上対立していた先行の港湾局ポートルネッサンス計画と後行の企画局レトロ計画(「ふる特」対象)を接合させ、(結局は後行の企画局のレトロ計画(「ふる特」が主となるが)、事業の円滑化に尽力している。道路計画としての跳ね橋旧門司三井倶楽部の復元、大連の国際友好記念図書館(大連記念館)、さらに旧門司税関ビルの復元を担当、その後、門司港ホテルの建設も計画担当している。

レトロの要になった旧門司税関の復元も、中学同窓の稲佐重正君・港湾局東部港営事務所長(港湾局開発課係長)が担当し、実現させた建造物の1つである。門司港地区の歴史的建造物の中で、旧門司税関は、もともと港湾局の守備範囲であって、企画局が主導する「ふる特」の直接の対象ではなかったため、(基本計画では一応帆船記念館として位置づけ、門司港レトロ事業(ポートルネッサンスと呼称)の一環として復元を計画していたが)、旧税関の復元は自治省ならびに文化庁の「ふる特」とは別に、港湾局が独自に運輸省の補助を受けて実施した。すなわち、折よく始まった運輸省の歴史的港湾環境創造事業への採択を陳情した。この事業でもハコモノは対象にならないのだが、粘り強く働きかけ、運輸省からの出向組だった歴代の港湾局長たちの応援もあり、採択された。

旧門司税関の復元前の状態は、倉庫時代に両翼が切り取られ、潮に洗われて松杭の頭部が腐食し、コンクリート基礎との間にすき間ができ、不同沈下により建物全体がバランスを失ってゆがみ、海側(西側)に傾いていた。このためレンガ壁は随所にひび割れが走っていた。
▼ 復元への知恵と努力
稲左重正・港湾局開発課係長(現東部港営事務所長)たち職員は、旧税関の歴史、構造、デザインの学術的分析や調査を外部に委託すると共に、出来るだけ創建時の姿に復元すべく、図面写真の捜索に奔走した。親子二代の税関勤務職員の協力を得て、税関倉庫より、昭和14年、旧税関の土地建物を固有財産として大蔵省に引き継いだときの書類や図面を見つけることができた。それにより、本来は左右に翼部があったことも確認できた。

当初、運輸省や大蔵省は増築・増額を懸念し、両翼復元に難色を示したが、両翼の復活外観(デザイン)上からも構造上からも必要不可欠であることや、レンガ部分の補強などで両翼がない方が逆に工費が嵩むことを、理論的根拠をもとに強調し、最終的には。両翼復元の認可を得た。これには、本省に復帰していた井上興治前港湾局長の関係筋への説得も大きな力になったという。
コンクリー卜基礎松杭の補強やレンガかべの補強も念入りに施工した。レンガかべの耐震補強には、建物内部に独立した鉄骨木造の2階建てをつくり、璧に負担がかからないようにした。運輸省が認可しない喫茶室の設置、冷房装置設置のための電熱用(220v)電気配線、エレベーター設置のためのスペース確保などは、市単費を理由に、3、4年以後の開店に備えて施工した。
内装には元税関の調度を探し出して活用した。昭和2年にできた旧合同庁舎時代の木製扉、シャンデリア、標札、ビンク色大理石、鋳鉄製飾り格子など贅沢な内装ばかりである。税関は外に対して国の権威を誇示する役所だという意識が、賛を尽くした内装に表れていた。復元した旧門司税関の入口、喫茶室、トイレ、展示室、変電室などのドアに使っている。シャンデリアは4基分がばらしてあったのを組み立てたら、2基を復元できた。舶来物らしい大理石は、使える部分を切り取って床に張りつけた。風格ある建物の雰囲気を再現した。

当初、運輸省には、事業費は4、5億円もあれば十分と見込んで申請したが、最終的には12億円に膨れ上がった。しかし、用地と建物の買収費の3分の1、工事費の3分の1は国の補助が付き、市負担分にはさらに交付税の助成があるため、市の実質負担は相当軽減できたという。こうして、見る影もなく荒廃し、取り壊し寸前だった旧門司税関は、修復工事丸2年を要して、平成6年12月9日峻工式を挙げることができた。「やはりやってよかつた」と、修復に関わった職員は、そして運輸省職員も、深い感慨に耽ったという。

そして、1995年(平成7年)3月25日には、門司港レトロ事業(ポートルネッサンスと呼称)の要として、他の施設と共にグランドオープンした。1階は税関常設展示コーナー、エントランスホール、休憩室、喫茶店「レトロカフェ」、展示室、2階はギャラリーと展望室となっている。また、2007年(平成19年)11月30日には、近代化産業遺産(31北九州炭鉱 - 筑豊炭田からの石炭輸送・貿易関連遺産)に認定された。
<資料:中学同窓・稲佐重正君提供>
<写真:中学同窓・田中文君撮影>
参考資料:1.ルネッサンスの知恵 第3号 門司港レトロヘの道すじ 財団法人北九州都市協会(平成14年2月)、2.北九州市新・新申期計画 北九州市(昭和55年4月)、3.ポート門司 21 北九州市職員研修所(昭和57年)

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