門司港栄華の象徴:旧料亭「三宜楼」|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

「生命と微量元素」講座

レトロ門司」復興への道

門司港栄華の象徴:旧料亭「三宜楼」

門司港栄華の象徴:旧料亭「三宜楼」の修復保存

■ 歴史
▼ 門司港栄華の象徴
三宜楼は、門司港駅から山手側の小高い山の上に位置にあり、木造3階建て和風建築で、現存する料亭の建屋としては九州最大級である。床面積300坪超(1200m2以上)、部屋数20室以上という建物の大きさに加え、高さ約5mもの石垣の上に建っているため、存在感が際立っている。
往時はいわゆる「一見さんお断り」の高級料亭で、2階にある大広間「百畳間」には16畳もの能舞台が備わっており、その格式の高さをうかがわせる。3階には、通称「俳句の間」があり、部屋の窓からは、眺望抜群で、関門海峡を背景に、明治時代の「九州鉄道記念館」や大正初期の「JR門司港駅舎」(国の重要文化財)など門司港レトロ歴史的建造物群を一望できる。

創業者・三宅アサの三宅家は文化や芸能に造詣が深く、16畳の舞台では能や踊り、長唄などが披露されたという。三宅アサの姪・芸妓「小まめ」は、京舞井上流名取で、伝統技芸持者にも認定され、三宜楼との絆は長く続いたという。華やかな宴には、さまざまな芸術家や文化人が訪れたと伝えられ、記録に残るところで、最盛期には、出光興産創業者の出光佐三、喜劇俳優・古川ロッパ、俳人・高浜虚子などが訪れたという。まさに、門司港栄華を象徴する料亭建築である。

三宜楼の創業者は、江戸時代末期に生まれた三宅アサという女性で、遅くとも明治39年(1906年)頃には営業を始めていたとされるが、一代で商売を大きくし、現存の「三宜楼」は、昭和6年(1931年)に建てられている。それから6年後、ちょうど日中戦争が勃発した昭和12年(1937年)、三宜楼は繁盛の頂点にあったようであるが、この年、アサは83歳で生涯を閉じている。
▼ 私物なるが故に解体の危機に!
アサの没後、三宜楼は親族に引き継がれたが、料亭としては昭和30年(1955年)頃に廃業している。その後、アサの孫にあたる男性が1階の数間だけを使って住んでいたが、平成16年(2004年)にその男性が亡くなり、遺族は建物の相続を放棄した。しかし、建物と土地の所有者が別々だったため、平成17年(2005年)、地主側は建物の解体を前提に土地を売りに出してしまう。価格は約3600万円。まさに、解体・消滅の危機に瀕していたのである。これを知った地元の有志は、急遽「三宜楼を保存する会」を結成。取り敢えずは、建物と土地の買い取りを目指して検討を始めた。

門司港栄華の象徴・三宜楼

門司港栄華の象徴の1つ旧料亭「三宜楼」

門司港栄華の象徴:旧料亭「三宜楼」

修復保存された旧料亭「三宜楼」

門司港栄華の象徴の1つ旧料亭「三宜楼」

門司港栄華の象徴の1つ旧料亭「三宜楼」

門司港栄華の象徴・三宜楼

門司港栄華の象徴・三宜楼

2階にある「百畳間」
■ 復元・保存への道
▼ 出来る限り市民の力で
国の重要文化財旧門司三井倶楽部」や「JR門司港駅」をはじめ、数々の歴史的建築物を擁する観光地、北九州市の「門司港レトロ」は、北九州市の事業として300億円余りを投じ、約7年の歳月をかけて整備されたが、その中で、門司港栄華の象徴でもある昭和初期の高級料亭「三宜楼」が私物なるが故に解体の危機に瀕していた。

所有者の都合による歴史的建築物の消滅を危惧して、地元の有志たちは、平成17年(2005年)「三宜楼を保存する会」を結成し、土地の所有者に売却の猶予を願い出るとともに、建物と土地の買い取りを目指して募金活動を始めた。平成17年(2006年)3月から8ヶ月かけ、約1300人から集めた募金の総額は、2000万円近くになった。また、16,000名の署名などの保存運動もあり、地主との交渉の末、当初の約半額の1700万円で土地を譲ってもらえることになった。建物は無償で譲渡を受け、平成19年(2007年)には、「三宜楼を保存する会」が所有権を取得することが出来た。しかし、この時点では未だ一時的な延命に過ぎず、築80年を超す木造建築の保存活用は容易ではなかった。
▼ 保存策を行政支援に求めるが、門司港レトロへの移築は拒否
三宜楼は、現時点で築80年を超す木造建築である。建物とくに基礎部分の傷みが酷い。活用するためには、修復に加え、耐震補強も必要になる。専門家による調査も必要である。保存の方法に至っては、市民の力だけでは手に余る。平成19年(2007年)、「三宜楼を保存する会」は、「土地・建物を市に寄付する代わり、保存策を検討してほしい」と、ただし「運営には市民が自ら携わる」、「建物の活用策として、飲食店を誘致して収益を得ることや、一部を見学スペースとして公開する」などの提案を付けて、北九州市支援を求めた。

行政側もプロジェクトチームを作って調査に乗り出すが、難問山積で、代替案として門司港レトロへの移築も検討される。しかし、移築では、現存地でこその建物が持つ歴史的な意味が薄れ、三宜楼坂の景観も損なわれてしまうとして拒否。結局、市は現地保存の意思決定を下したが、市が「土地・建物の寄付」を受け入れるまでに、2年以上を要した。「三宜楼を保存する会」は名称を「保存活用協力会」に変更し、活動を続ける意思を表明。平成22年(2010年)1月、保存会の発足から4年が経過していた。

その後、「土地・建物」は北九州市に寄贈されたが、改修設計案の段階で、市の提案する「胆で斬新なリノベーション案」と市民が望む「三宜楼の昔の姿への復元」との間で折り合いが着かず、結局、改修設計は振り出しに戻った。その後も、工事を落札した業者が難工事を理由に辞退するなど、紆余曲折を経てようやく本格的な改修工事開始に漕ぎ着けたのは、平成25年(2013年)に入ってからである。平成25年(2013年)3月、保存修理工事に着手、平成26年(2014年)3月に、やっと本体工事を終えた。市に寄贈し、改修オープンまでに7年を費やした。

しかし、全面改修ではない。改修費が膨らんだため、全面改修は断念せざるを得なかった。傷みのひどい部分は取り壊し、3階は「俳句の間」以外は使用禁止として、未改修のまま残した。それでも、総事業費2億円近くに上った。「三宜楼運営協議会」の方々は、今もなお全面改修を目指して資金集めを続けている。
▼ 館内施設
現在、甦った三宜楼は、「保存活用協力会」ほか地元6団体北九州市の8つの団体で構成する「三宜楼運営協議会」によって運営されている。館内には、初代内閣総理大臣伊藤博文が食し、禁制が解かれ、ふぐ料理公許第一号となってより120余年のふく料理公許第一号店:下関の老舗ふぐ料理店「春帆桜」が支店「三宜楼茶寮」を出している。2階の広間は、イベントや会合に貸し出しを行っている。1階には、当時の三宜楼を紹介する展示室が設けられ、地元の人たちが交替で常駐し、建物の掃除や観光客の案内をしている。1ヶ月に600人以上が来場しているが、その半数は北九州市外からの観光客だという。
また、未補修のため、立ち入り禁止の3階には、ガイドが立ち会う場合に限って上がることができる。門司港駅から山手側の小高い山の上に位置するため、一間だけ改修された通称「俳句の間」の窓からは、眺望抜群で、関門海峡を背景に、明治時代の「九州鉄道記念館」や大正初期の「JR門司港駅舎」(国の重要文化財)など門司港レトロ歴史的建造物群を一望できる。
<資料:中学同窓・稲佐重正君提供>
<写真:中学同窓・田中文君撮影>
2018.6.17 14.10〜撮影
参考資料:1.ルネッサンスの知恵 第3号 門司港レトロヘの道すじ 財団法人北九州都市協会(平成14年2月)、2.北九州市新・新申期計画 北九州市(昭和55年4月)、3.ポート門司 21 北九州市職員研修所(昭和57年)

PageTop