
佐々木信綱:鎌倉幕府を支え続けた生涯
武将の宿命:栄光栄華の陰に悲哀あり 出家し供養と安らぎを求める
■ 佐々木信綱
佐々木信綱(養和元年(1181年)〜仁治3年(1242年)3月6日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。幕府:鎌倉幕府の重鎮、御家人。近江守護、評定衆。官位:従五位上、右近将監、左近衛将監、右衛門尉、左衛門尉、検非違使、近江守。近江国の佐々木荘(滋賀県近江八幡市)を本領とし、宇多天皇の皇子を祖とする宇多源氏、佐々木源氏の当主。正室は鎌倉幕府第2代執権・北条義時(源頼朝の正室・北条政子の弟)の娘(鎌倉幕府第3代執権・北条泰時の妹)。宇多源氏嫡流・佐々木定綱の嫡男。母は新田義重の娘。祖父は宇多源氏嫡流・佐々木秀義、祖母は清和源氏嫡流・源為義の娘。太郎と称する。出家後の改名:経仏(号)。戒名:天源寺殿春山公。
我が家系に伝わる系図には、信綱四郎 左近将監の項に「建歴三年八月八日右衛門尉、承久三年四月十六日使宣、嘉禄三年十一月十一日轉左衛門尉、貞應元年十月十六日従五位下、使如元安貞二年十二月廿六日近江守従五位上、天福二年正月九日加評定衆、同年七月廿六日𣴎家本佛又改虚假佛、承久逆乱ニ宇治川ノ一番乗高名、武蔵守平泰時妹聟、仁治三年三月六日卒ス。六十二歳。」と付記されている。
*本佛:永遠の昔から悟りを開いている仏。諸仏を統括する根本の仏。
*平泰時(北条泰時):「甲斐信濃源氏綱要」(『系図綜覧』所収)の信時項に「後堀川院寛喜元年正月十五(年十)、加冠平泰時、因先例請名、故號名信時」とある。
*聟:「婿」の俗字
*平泰時(北条泰時):「甲斐信濃源氏綱要」(『系図綜覧』所収)の信時項に「後堀川院寛喜元年正月十五(年十)、加冠平泰時、因先例請名、故號名信時」とある。
*聟:「婿」の俗字






我が家系伝来の宇多源氏流(近江源氏・佐々木源氏)家系図(⇒ 定綱、信綱)
養和元年(1181年)、鎌倉前期の武将、後に近江国守護を務める佐々木定綱の四男として誕生。母は新田義重の女。正治2年(1200年)、幕命を受け、近江柏原荘(滋賀県米原市)の住人柏原為永を討伐。元久2年(1205年)には幕府軍に従い、京都守護・平賀朝雅を攻め、左近将監に任ぜられ、建保2年(1214年)には左近衛将監に任ぜられた。(同年1月22日や7月27日の『吾妻鏡』に見られる)。
承久3年(1221年)に後鳥羽上皇と幕府が争った承久の乱が起こると、京に近い近江に在り検非違使と山城守に任ぜられていた定綱の嫡子である佐々木広綱を始め一門の大半は上皇方に与し、鎌倉に在り執権の北条義時の婿となっていた広綱の弟の近江守・佐々木信綱は幕府方に与した。信綱は北条泰時に従い攻め上がり、宇治川の合戦で戦功をあげた。信綱は、長男・重綱や北条泰時の長男・時氏と共に難攻の川を渡り切り上皇方を破る。幕府方の勝利で終戦後の7月2日、上皇方に属した長兄・広綱は斬首となる。翌年の9月22日、信綱は宇治川での戦功により、佐々木氏の本貫地である近江佐々木豊浦庄、羽爾堅田庄、栗本北郡の地頭職を与えられる。
嘉禄2年(1226年)1月、前年暮れに元服した藤原頼経の征夷大将軍宣下を得るための朝廷への使者を務め、また宇治川での戦功を含め、兄・広綱にかわり寛喜4年(1232年)には近江守に任ぜられる。文暦2年(1235年)、承久の乱で得た佐々木豊浦庄に代わり、尾張国長岡庄の地頭職を与えられる。
文暦元年(1234年)、評定衆に加わるが、遁世を願い,同年出家し法名虚仮と号す。2年間在職した後、嘉禎2年(1236年)遁世を志して評定衆を辞し上洛した。仁治2年(1241年)高野山に登り、翌年の仁治3年(1242年)3月6日、死去。享年62歳。戒名:天源寺殿春山公。蒲生郡にて老曽明神として祀られたという。
信綱の死後、近江は4人の息子に分割され、長男・重綱が坂田郡大原荘を、次男・高信が高島郡田中郷を、三男・泰綱が宗家と江南にある神崎郡、蒲生郡、野洲郡、栗太郡、甲賀郡、滋賀郡の6郡を、四男・氏信が江北に在る高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛智郡の6郡をそれぞれ継ぐことになる。
近江本領の佐々木嫡流は、三男の佐々木泰綱が宗家となる佐々木六角氏の祖となり、四男の佐々木氏信が佐々木京極氏の祖となる。鎌倉政権において、嫡流の六角氏は近江守護を世襲して六波羅を中心に活動し、六波羅評定衆などを務める。一方、庶流の京極氏は鎌倉を拠点として評定衆や東使など幕府要職を務め、北条得宗被官に近い活動をしており、嫡流に勝る有力な家となる。京極家4代目の佐々木道誉は、足利尊氏の幕府離反に同調して北条氏打倒に加わり、足利政権(室町幕府)創設の立役者となる。
承久3年(1221年)に後鳥羽上皇と幕府が争った承久の乱が起こると、京に近い近江に在り検非違使と山城守に任ぜられていた定綱の嫡子である佐々木広綱を始め一門の大半は上皇方に与し、鎌倉に在り執権の北条義時の婿となっていた広綱の弟の近江守・佐々木信綱は幕府方に与した。信綱は北条泰時に従い攻め上がり、宇治川の合戦で戦功をあげた。信綱は、長男・重綱や北条泰時の長男・時氏と共に難攻の川を渡り切り上皇方を破る。幕府方の勝利で終戦後の7月2日、上皇方に属した長兄・広綱は斬首となる。翌年の9月22日、信綱は宇治川での戦功により、佐々木氏の本貫地である近江佐々木豊浦庄、羽爾堅田庄、栗本北郡の地頭職を与えられる。
嘉禄2年(1226年)1月、前年暮れに元服した藤原頼経の征夷大将軍宣下を得るための朝廷への使者を務め、また宇治川での戦功を含め、兄・広綱にかわり寛喜4年(1232年)には近江守に任ぜられる。文暦2年(1235年)、承久の乱で得た佐々木豊浦庄に代わり、尾張国長岡庄の地頭職を与えられる。
文暦元年(1234年)、評定衆に加わるが、遁世を願い,同年出家し法名虚仮と号す。2年間在職した後、嘉禎2年(1236年)遁世を志して評定衆を辞し上洛した。仁治2年(1241年)高野山に登り、翌年の仁治3年(1242年)3月6日、死去。享年62歳。戒名:天源寺殿春山公。蒲生郡にて老曽明神として祀られたという。
信綱の死後、近江は4人の息子に分割され、長男・重綱が坂田郡大原荘を、次男・高信が高島郡田中郷を、三男・泰綱が宗家と江南にある神崎郡、蒲生郡、野洲郡、栗太郡、甲賀郡、滋賀郡の6郡を、四男・氏信が江北に在る高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛智郡の6郡をそれぞれ継ぐことになる。
近江本領の佐々木嫡流は、三男の佐々木泰綱が宗家となる佐々木六角氏の祖となり、四男の佐々木氏信が佐々木京極氏の祖となる。鎌倉政権において、嫡流の六角氏は近江守護を世襲して六波羅を中心に活動し、六波羅評定衆などを務める。一方、庶流の京極氏は鎌倉を拠点として評定衆や東使など幕府要職を務め、北条得宗被官に近い活動をしており、嫡流に勝る有力な家となる。京極家4代目の佐々木道誉は、足利尊氏の幕府離反に同調して北条氏打倒に加わり、足利政権(室町幕府)創設の立役者となる。

佐々木秀義と源義朝にみる宇多源氏と清和源氏の血縁:
「佐々木秀義の妻が源為義の娘であり、為義の嫡子が源義朝である」ことから、佐々木秀義と源義朝は婿養子兄弟/義兄弟の間柄であり、「宇多源氏と清和源氏の血縁」が浮き彫りになる。
すなわち、佐々木秀義にとって、宇多源氏(始祖:敦實親王&源雅信)の嫡流・源成頼は高祖父、佐々木義経(佐々木氏・祖)は曾祖父、佐々木経方は祖父、佐々木季定は父、佐々木定綱は長男であり、清和源氏(始祖:源経基)の嫡流・源義家は曾祖父、源義親は祖父、源為義は猶父&義父、源義朝は猶子兄弟&義兄弟、そして源頼朝や源義経は甥御となる。したがって、秀義の息子・佐々木定綱と義朝の息子・源頼朝や源義経は従兄弟どうしである。
この佐々木秀義を介する血の繋がりが「宇多源氏と清和源氏」の両嫡流の結束をより強固なものにした。佐々木秀義は、平治の乱後に伊豆国へ流罪となった義朝の嫡子・源頼朝の元へ4人の息子・定綱、経高、盛綱、高綱を向かわせる。そして、治承4年(1180年)に頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると、長男・定綱をはじめとする4人の息子たちは共に頼朝を支え、それぞれ軍功を挙げ、頼朝の「鎌倉幕府」創設に貢献した。
戦後、4兄弟は、鎌倉幕府創設の功臣として頼朝に重用され、本領であった近江を始め17ヶ国の守護へと補せられる。嫡子・佐々木定綱は、鎌倉幕府の重鎮。御家人。近江国守護。長門国、石見国、隠岐国の守護。従五位上,検非違使・左衛門少尉、京都所司代。そして、定綱の息子・佐々木信綱は、鎌倉幕府の重鎮、御家人。近江守護、評定衆として、生涯にわたり鎌倉幕府を支え続けた。
「佐々木秀義の妻が源為義の娘であり、為義の嫡子が源義朝である」ことから、佐々木秀義と源義朝は婿養子兄弟/義兄弟の間柄であり、「宇多源氏と清和源氏の血縁」が浮き彫りになる。
すなわち、佐々木秀義にとって、宇多源氏(始祖:敦實親王&源雅信)の嫡流・源成頼は高祖父、佐々木義経(佐々木氏・祖)は曾祖父、佐々木経方は祖父、佐々木季定は父、佐々木定綱は長男であり、清和源氏(始祖:源経基)の嫡流・源義家は曾祖父、源義親は祖父、源為義は猶父&義父、源義朝は猶子兄弟&義兄弟、そして源頼朝や源義経は甥御となる。したがって、秀義の息子・佐々木定綱と義朝の息子・源頼朝や源義経は従兄弟どうしである。
この佐々木秀義を介する血の繋がりが「宇多源氏と清和源氏」の両嫡流の結束をより強固なものにした。佐々木秀義は、平治の乱後に伊豆国へ流罪となった義朝の嫡子・源頼朝の元へ4人の息子・定綱、経高、盛綱、高綱を向かわせる。そして、治承4年(1180年)に頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると、長男・定綱をはじめとする4人の息子たちは共に頼朝を支え、それぞれ軍功を挙げ、頼朝の「鎌倉幕府」創設に貢献した。
戦後、4兄弟は、鎌倉幕府創設の功臣として頼朝に重用され、本領であった近江を始め17ヶ国の守護へと補せられる。嫡子・佐々木定綱は、鎌倉幕府の重鎮。御家人。近江国守護。長門国、石見国、隠岐国の守護。従五位上,検非違使・左衛門少尉、京都所司代。そして、定綱の息子・佐々木信綱は、鎌倉幕府の重鎮、御家人。近江守護、評定衆として、生涯にわたり鎌倉幕府を支え続けた。















