先祖の足跡を訪ねて −高忠が開創の宗仙寺:墓石確認のため再訪問−|「生命と微量元素」講座<荒川泰昭>

「生命と微量元素」講座

先祖の足跡を訪ねて

高忠が開創の宗仙寺:墓石確認のため再訪問

Sousenji Temple, founded by Takatada kyogoku:
Revisited to confirm the tombstones

8代目・京極高忠が開創した宗仙寺を墓石(宝篋印塔など)確認のため再訪問

Revisited Sosenji Temple, founded by the 8th generation:
Takatada Kyogoku, to confirm the tombstones (Hokyoin-to
pagoda etc)

宗仙寺にある多賀家墓石は高忠の系とは無縁であった! 2019年6月23日

京都での学会の帰途、出発前の時間を利用して、室町幕府京都所司代・京極高忠多賀豊後守の開創とされる宗仙寺(京都)を墓石確認のため再訪問する。 2019年6月23日
■ 寺伝:大平山宗仙寺略縁起

宗仙寺略縁起

住職より恵贈いただいた「大平山宗仙寺略縁起」によると、当寺は大聖釈迦牟尼仏を本尊とし、その直示の教えを伝え実践する曹洞(禅)宗寺院である。今より五百五十七年前の寛正二年(1462年)、京都所司代京極高忠多賀豊後守公により、高倉六条の地に開創された。その後、天正七年(1579年)三月、天江東岳大和尚を招いて高倉五条素塩竈(京都市下京区五条通高倉東入塩竈町)の地へ移り、七堂伽藍はじめ一滴庵・寿昌庵等の塔頭などを完備し円成する。これにより、東岳大和尚を開山禅師と尊称している。
東岳大和尚の禅機(禅修行の教え)である学徳恰も天聴(天子の耳)に達し、畏くも正親町天皇は深く御帰依なされて、天正十三年(1585年)十二月二十七日参内(宮中への参上)を仰せ付けられ、関州徳光禅師の勅賜号御宸翰(天皇自筆の文書)および紫衣を賜る叡感に浴す(天皇からの称賛の栄誉を授かる)。また三世無住其心大和尚も寛永二十年(1644年)三月十六日参内を仰せ付けられ、明正天皇より奪山広沢禅師の勅賜号と紫衣および御宸翰を賜る。元禄四年(1692年)三月の寺格改めには東山天皇より、享保二年(1718年)六月の寺格改めには中御門天皇より本山格の勅許を賜うなど、咸く(全て)希有の事である。
叙上の如く、歴代住持(住持職)は篤く国恩(国から受ける恩)を心に深く刻み、正親町天皇以来明治初年まで、毎年正月・九月には参内して天機(天皇のご機嫌)を奉伺する。また曹洞宗大本山代理として禁裏・仙洞両御所へ参内および公席に列するなどの外、有栖川宮家七代・韶仁親王の時、宮家御祈願所となり、寺紋に有栖川菊紋を許される。本堂正面の扁額「大平山」は、実に韶仁親王の御直筆である。
この間、京都は兵戦多く、三回祝融(戦火)に見舞われたが、咤枳尼尊天(だきにそんてん:嵯峨天皇皇子・河原左大臣源融公の守り本尊)堂と現存の山門一字(幾度か修復する)は火災を免れたという。この事を聞こし召され、禁裏より特に不可思議の故をもって山門保存の宣命を蒙る。下って、元治元年(1864年)の大火には、周囲尽く灰燼に帰せしが、当寺のみ災火を受けず、これ偏に鎮守咤枳尼尊天御守護の霊験であると、火除けの稲荷様、招福の稲荷様と弥々ひろく尊崇されるに至る。古来当寺の檀家・講中に火元の火災なしと伝う。最近また信者が火難を隣家で食い止めたる実例の報告三、四に止まらず、只々不思議な神験という外なし。
当寺書院豊臣秀吉建立の桃山初期の建築と推定される(東工大・藤岡通夫博士)。明治維新廃仏毀釈の際に大徳寺より移建されたものである。同書院襖絵狩野永徳の筆にして現在京都博物館に保管されている。と記されている。

宗仙寺・再訪問

宗仙寺・再訪問

山門

宗仙寺・再訪問

宗仙寺・再訪問

本堂
中門

宗仙寺・再訪問

宗仙寺・再訪問

墓地入口 左に菩薩像
本堂 上がり框

宗仙寺・再訪問

宗仙寺・再訪問

中庭

宗仙寺・再訪問

宗仙寺・再訪問

渡り廊下
書院

宗仙寺・再訪問

宗仙寺・再訪問

本堂内

宗仙寺・再訪問

宗仙寺・再訪問

本堂祭壇

宗仙寺・再訪問

宗仙寺・再訪問

本尊:大聖釈迦牟尼仏

宗仙寺・再訪問

宗仙寺・再訪問

宗仙寺・再訪問

宗仙寺・再訪問

宗仙寺墓所
■ 高忠の父・高数京極九郎加賀守(-1441)
高忠多賀豊後守の父は、わが家系では京極家初代より7代目の京極高数(1441年卒)。6代目・京極高詮の次男。兄は京極高光。室町時代中期の武将、守護大名室町幕府侍所頭人・山城守護。飛騨・出雲・隠岐守護。近江北郡の分郡守護(軍事指揮権)。御相伴衆。左衛門尉・加賀守。法名道統(有統)。

京極家宗家は、高詮のあとは嫡男の高光が継いだが生来の病弱であったため、公務に耐えられず、後小松天皇の行幸警護や応永18年(1411年)の飛騨の乱では、幕府軍総大将として鎮圧するなど、弟の高数が兄の代役を務めることが多かった。応永20年(1413)兄高光が病死すると嫡男・持高(持光)が宗家の家督を継いだが、若年であったため高数後見を務め、応永28年(1421)から応永30年(1423)まで侍所頭人・山城守護職にも任じられた。また、持高とともに御相伴衆にも列した。永享11年(1439)、持高が子を残さないまま早世すると、ときの将軍足利義教は持高に弟持清(中務少輔)がいたにもかかわらず、高数を京極氏の当主とした(薩戎記)。

高数はひとかどの人物であったようで、 先の将軍足利義持にも重用されたが、将軍義教も高数を寵遇し、土岐氏から入った高数の養子・教久にも偏諱「教」を与えている。甥の持清を差し置いて高数を京極氏の家督にするというこの任命は、もちろん高数が高光、持高の二代に渡って実質的に宗家の家政を仕切っていたことと、将軍足利義持義教の寵を受けていたことが最大の理由であるが、「守護の任免権を将軍が握る」という足利義教の恐怖政治の特徴のひとつでもあり、のちの「将軍が大名の国替・改易を行う近世的封建制度」を先取りしたものでもある。

ところが、嘉吉元年(1441年)6月24日、播磨守護・赤松満祐の酒宴に招待を受けた室町幕府6代将軍・足利義教が赤松邸において暗殺されるという事件が起こった。いわゆる「嘉吉の乱」であり、義教に供奉し、管領の細川持之・畠山・山名・大内ら有力守護大名や公家らとともに相伴していた高数は、細川持之ほか諸大名が逃げる中、その場に残って孤軍奮闘したが(建内記)、瀕死の重傷を負い、京極邸に帰ったところで息絶えた(師郷記)。
■ 高数の死後、京極宗家の家督を兄・高光の血筋に戻す
京極家7代目当主である守護大名・京極高数には、土岐氏から入った養子・教久とのちに生まれた嫡男・高忠がいたが、「嘉吉の乱」で非業の死を遂げた時、わが家系の8代目嫡男・高忠はまだ16歳の若年であり、重職は難しく、京極宗家家督を兄・高光の血筋:持高の弟である持清に戻す。

養子・教久(将軍・足利義教より偏諱「教」を賜う)は、別に家(京極加州家)を立て以降の宗家を支えた。この家は室町幕府に於いても、京極別家(国持に准ずる外様衆)として重んじられ将軍家から新たに所領も拝領し、次代京極政数(名は政宗とも、将軍足利義政より偏諱「政」を賜う)以降も続いた。幕府内で活躍したほか京極氏の主たる領国である出雲においても、鞍智氏とともに宗家の代理として活躍した。

嫡男・高忠は、父・高数が祖父の京極家6代目・京極高詮から譲られ、応永4年(1397年)に築城し、家老たちと一緒に住んだという領地:多賀庄の下之郷を本拠とし、近江多賀庄下之郷城主となった。
室町幕府3代将軍足利義満の盛大な相国寺慶讃供養先陣随兵を務める守護大名・京極高数を家老として補佐した(「相国寺供養記」)豊後守・多賀高信(兵庫助)は、主君・高数の遺児京極高忠(当時16歳)を不憫に思い(?)、忠義心から自らの多賀家嫡子・多賀高長(2人の息子を持つ)の養子の形で手元に置き、近江犬上郡の下之郷城主として庇護・後見した。

その後、成人した京極高忠は、のちに起こる応仁の乱以降、敵対・断絶関係となる坂田郡の出雲守・多賀高直の娘(清直の妹)を娶り、領地:多賀庄の下之郷を本拠にしたことから、また家臣・多賀豊後守家当主となったことから、「多賀」を名乗り、京極家の家宰として従兄弟・京極持清の近江京極宗家を支えた。

応仁元年(1467年)に勃発した「応仁の乱」でも、京極佐々木氏の中心となり、管領・細川勝元らの東軍に属した従兄の宗家・京極持清(勝元の叔父)に代わって、東軍の総指揮官として西軍の山名持豊(宗全)を撃破し、東軍の京都防衛に奮戦した。
また、文明2年(1470年)、応仁の乱の最中に、京極家当主・持清と嫡男・勝秀が相次いで病死したために起こった京極家の家督争い「京極騒乱」では、勝秀の嫡子・孫童子丸を家督とし、後見の持清の3男・京極政経(政高)を庇護して、庶子・乙童子丸高清)を立て、後見する持清の次男・京極政光や六角高頼らに対抗した。

騒乱は35年続くが、その間、高忠は室町幕府要人として、2度にわたる室町幕府京都侍所所司代をつとめ、死に至るまで京都の治安維持に力を発揮した。京都市中の再建にも尽力したが、翌年の文明18年(1486年)に世を去った。公平無私な政治を行い、名所司代の美名を残した。
■ 高忠多賀豊後守 (1425〜86)
高忠多賀豊後守 (1425〜86) は、わが家系では京極家初代より8代目で、7代目・京極高数の嫡男。室町時代後期から戦国時代前期の武将。室町幕府要人室町幕府京都侍所所司代近江守護代、近江多賀庄下之郷城主。通称は新左衛門、官位は豊後守。法号は宗本。号は大源。
京極一族である近江の守護代・高忠は、父・高数が祖父の京極家6代目・高詮から譲られ、応永4年(1397年)に築城し家老たちと一緒に住んだという領地:多賀庄下之郷を本拠にしたことから、また京極家より家臣・多賀豊後守家当主となったことから、「多賀」を名乗り、京極家家宰として従兄弟・京極持清の近江京極宗家を支えた。

応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱でも、京極佐々木氏の中心となり、管領・細川勝元らの東軍に属した従兄でもある宗家・京極持清(勝元の叔父)に代わって、東軍の総指揮官として西軍の山名持豊(宗全)を撃破し、東軍の京都防衛に奮戦した。
ところが、文明2年(1470年)、応仁の乱の最中に、京極氏は当主・持清と嫡男・勝秀が相次いで病死したため、家督を巡り勝秀の嫡子・孫童子丸派と勝秀の庶子・乙童子丸派との間で争いが起こった。いわゆる京極騒乱である。
この応仁の乱に連動して発生した京極家のお家騒動(京極騒乱)では、高忠は勝秀の嫡子・孫童子丸を家督とし、後見の持清の3男・京極政経(政高)を庇護するが、高忠の権勢を嫌う飛騨守護代の義兄(高忠室の兄)・多賀出雲守清直と子の宗直父子らは西軍に寝返り、庶子・乙童子丸高清)を立て、後見の持清の次男・京極政光や六角高頼らと共に対抗した。

以後、京極氏多賀氏敵対・絶縁することになり、この京極騒乱は、一進一退の攻防が応仁の乱終了後も続き、文明13年(1481年)、幕府の仲介で両者はいったん和睦したものの、江北は庶子・京極高清と多賀宗直(高忠の義理の甥)らが実権を握り、高忠は本拠である近江犬上郡甲良荘下之郷(現在の滋賀県犬上郡甲良町下之郷)には入国できず、終生京都に在住した。
その間、高忠は室町幕府要人として、2度にわたる室町幕府京都侍所所司代をつとめ、死に至るまで京都の治安維持に力を発揮し、京都市中の再建にも尽力したが、翌年の文明18年(1486年)に世を去った。公平無私な政治を行い、名所司代の美名を残した。通称は新左衛門、あるいは官位である豊後守。法号は宗本。号は大源。

一方、出雲守家系の義兄(高忠室の兄)多賀清直は文明11年(1479年)に亡くなり、息子の多賀宗直(高忠の義理の甥)も京極政経・材宗父子が出雲より上洛すると、長享元年(1487年)、命乞いのためか、主君に反乱を起こし京極高清を追放するが、その後の反撃に遭い敗死。坂田郡の多賀出雲守家は断絶した。
翌・長享2年(1489年)、嫡流派の京極政経は近江国人衆の協力を得て、庶流派の京極高清を越前敦賀へ追放。延徳2年(1490年)、政経は幕府から当主(京極氏惣領職)と認められ、併せて高清退治を命じられる。しかし、配下の所領横領の管理責任をとって辞職。代わりに明応2年(1493年)、高清が家督を認められ江北に復帰するが、庇護を受けていた美濃の斎藤妙純が戦死すると高清も没落、美濃海津に寄留。政経は、出雲の守護代・尼子経久の地へ下向するが、息子・京極材宗は近江に残り、抗戦を継続した。
明応8年(1499年)、追放されていた高清は京極氏重臣・上坂家信の助力により江北へ帰還が叶う。2度にわたる材宗の襲撃を退け、永生2年(1505年)、高清は従兄弟・材宗と偽の同盟を結び、和睦する。そして、2年後に材宗を暗殺する。これで、35年間続いた家督争いは終結する。京極氏惣領職は嫡流の京極政経・材宗の系に代わり、庶流の京極高清の系となる。

以後、京極の宗家は勝秀の庶子である高清の系(庶流派)となり、高吉、高次へと続くが、高次が織田信長の死後、明智光秀に属したことで豊臣秀吉の追及を受ける。しかし、高次の姉・竜子および高次の正室・の姉・が秀吉の側室となり、正室・初の妹・が2代将軍・徳川秀忠の正室となり、さらに3姉妹の母が信長の妹・お市の方であるなど、女性陣の縁故により許され、没落の難を逃れ、秀吉政権下では近江大津城6万石の大名に、徳川家康政権下では小浜藩主となり、「蛍大名」と言われる所以であるが、弱体化した京極家を再興した。
また、高忠の次男は独立し、聖徳太子の伯母・片岡姫ゆかりの地・片岡を本拠にして、片岡次太夫・宗春を称し、別家・片岡家(片岡家始祖・片岡城主)を立てたとある。宗春のあと、利持、国春、春利と続くが、元亀元年(1570年)春利が36歳で病死したため、一時片岡一帯および城を松永久秀に占領される。しかし、天正5年(1577年)明智光秀、筒井順慶、長岡藤孝(息子:細川忠興・興元兄弟と共に)ら織田信長軍により奪還される。宗春の次男・次郎左衛門光二)は、本阿弥光心の娘・妙秀と結婚し、本阿弥光心の婿養子として本阿弥家に入るが、その後独立。その長男・本阿弥光悦が江戸時代初期の寛永の三筆(本阿弥光悦、近衛信尹、松花堂昭乗)の一人であり、俵屋宗達尾形光琳と共に、後世の日本文化に多大な影響を与えた琳派の創設者である。

わが家系では、8代目・高忠のあとの9代目は高忠46歳の時(応仁の乱の最中、京極騒乱勃発直後)の子である秀高孫兵衛治部少輔(1471〜1526)が父同様15歳の若年で継ぐ。本来の佐々木京極家系宇多源氏嫡流の家紋「隅立四ツ目結」)として、秀高(大永6年/1526年卒)以降、祐高(天正14年/1586年卒)、国高(寛永19年/1642年卒)、高福(延宝7年/1679年卒)、高重(正徳5年/1715年卒)へと、佐々木京極家関連の領国(出雲、石見、安芸)で城督を務めながら、戦国時代、江戸時代、そして明治時代に至るまで家系を繋いでいる。
<付記>
ちなみに、わが家系にも本阿弥鑑定折り紙付きの名刀「兼光」が伝わり、私が幼少の頃、祖父・兼助がその手入れ(定期的に刀身に打粉を付け、奉書紙で拭って古い油を取り、新しく刀剣油を塗り替える作業)に余念がなかったことを思い出す。当時、貴重であった和(生)菓子をもらうため、刀剣みがきが終わるまで、祖父の前で弟と二人で正座して待たされることしばしばであった。しかし、周知の所蔵であっただけに、終戦後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ、進駐軍)の占領政策の一環として(とくに日本軍の武装解除を目的とする非軍事化の一環として)行われた全国にわたる日本刀の提出命令刀狩り」によって没収されてしまった。留守居の祖母がだまし討ちの没収に遭った家宝「兼光」は今いずこに在りや!
■ 高忠死後の多賀豊後守家系後継の信憑性
高忠の死後、犬上郡由来の多賀豊後守家系は、多賀姓で豊後守を名乗ったとされる豊後守多賀高家(経家)、その子・美作守多賀秀忠(新左衛門尉)が継いだとする説があるが、美作守多賀高房が継いだとする説もある。美作守・多賀高房とする根拠は、「蔭涼軒日録」の文明18年(1486年)7月の条に、美作守高房が京極政経・材宗父子に仕え、在京していたことが見え、また「嶋記録」からは高房のあとを豊後守・貞澄(貞隆)が継ぎ、ついで信濃守・貞能へと続いたことが窺えるとされる2つの資料の記述からのみで結び付けられたものであり、いずれにしても、その信憑性を含め、その間の多賀氏の詳細な動向は杳として不明である。
別名「新左衛門尉」は甲良町下之郷を拠点とした一派(豊後守系)が代々名乗る通称であるが、後継とされる子孫に一貫性は見られず、また連結された豊後守家系の後継の官位が豊後守・美作守・豊後守・信濃守・出雲守と一貫していない。上述の美作守・秀忠には「新左衛門尉」の通称が付いているが、美作守・高房にはなく、「蔭涼軒日録」や「嶋記録」の根拠を含め、疑問な点が多い。

また、守護大名である高忠の父・京極高数の家臣(家老)として、室町幕府3代将軍・足利義満の盛大な相国寺慶讃供養の先陣随兵を務める高数(「相国寺供養記」)の補佐役を務めた多賀豊後守高信(兵庫助)には、嫡男・多賀豊後守高長(高忠の養父)の他に、次男・伊勢守多賀高輝高長の2人の息子・高亮高命などがみられるが、本来の犬上郡多賀豊後守家系の後継として関わりがないのか、詳細な動向は全く不明である。
すなわち、京極高忠の死後、この多賀高信(兵庫助)、多賀高長直系の子孫は当然ながら本来の犬上郡多賀豊後守家系を繋ぐことを望み、また敵対・絶縁する坂田郡出雲守家系の出雲守・多賀高直の娘(高忠の室、清直の妹)の子孫(某説では、上述の高家、秀忠、貞澄、貞能と推測されているが)の継承を嫌い、さらに高直嫡系の多賀出雲守清直や嫡男・宗直ら子孫との関わりを嫌うはずである。多賀高信・多賀高長直系の子孫本来の犬上郡多賀豊後守家系の後継として関わっていないのか、調べる必要がある。

十五世紀末から戦国時代に入り、十六世紀の半ばになると、尾張の織田信長がにわかに勢力を拡大し、足利義昭を奉じて上洛軍を発したが、これへの協力を拒絶した江南の戦国大名六角氏南近江の守護)は、永禄11年(1568年)、織田信長の侵攻により没落した。高忠の下之郷城も焼失し、築城以来170年の歴史に幕を閉じた。

某解説では、六角氏の麾下にあった蒲生氏ら多くの家臣は信長に仕えたようであるが、多賀貞澄の子・貞能は、近江国高島郡(現在の滋賀県高島市)に拠を移し、高島郡の国人として明智光秀、ついで豊臣秀吉に直仕したという。信濃守・多賀貞能には、男子の無いため、信長、秀吉の側近大名である越前18万石の堀秀政の弟・秀家(秀種;兄留守中は近江佐和山9万石城代)を養子に迎えたが、秀家は出雲守を称して兄秀政に仕えている。しかし、天正18年(1590年)の小田原陣において堀秀政が陣没したため、多賀秀家は大和大納言豊臣秀長に仕えた。ところが、秀長も病没したため豊臣秀吉に直仕し、文禄元年(1592年)、大和国支配の要である大和国宇陀郡において秋山城2万石の大名となる。

こうして、豊後守系由来とされる近江国高島郡(現在の滋賀県高島市)の国人・多賀氏は秀吉政権下の大名に出世したが、慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の合戦で西軍・石田三成方に味方したことで没落の運命となる。すなわち、多賀秀家は旧主筋にあたる京極高次が籠る大津城攻めに加わったため、戦後、所領を没収され越後国に追放処分となり、中世における多賀氏本流出雲守系豊後守系断絶し、歴史の荒波に呑まれてしまったことになっている。多賀秀家には秀武、秀誠の2人の息子がおり、秀誠のあとは、直定が継いだとされるが、以後は不明である。一説には、出雲守・多賀秀家は、転封、改易を繰り返した末に前田利常の家臣(6000石)となり、子孫の一部は加賀藩士(5000石知行)になったという説もあり、分家に土田氏、久徳氏がいる。
■ 多賀氏の出自
多賀氏の出自には不明な点が多く、種々の記述に矛盾混同がみられる。家系を飾るために他氏(例えば、中原氏清和源氏)の系図への結び付けや人物の混同・すり替えなど、仮冒(他人の名を語る偽称)の可能性さえ疑われる記述が多くある。多賀氏はもともと多賀・甲良地方の土着の豪族で、多賀神社を氏神とし、鎌倉時代の初期から中期にかけて甲良・多賀地方に大きな勢力を持っていたが、多賀地方を占拠の上、鎌倉幕府の執権北条氏に寄進して鎌倉御家人となり、鎌倉時代には多賀社の神官となって、その祭祀を取り仕切ったようである。しかし、南北朝時代以降は多賀大社の史料に現れず、代わって「太平記」には、「元弘建武の騒乱において京極高氏(佐々木道誉)に従軍する」など、京極氏の被官(家臣)としての活動が見られることから、南北朝時代京極氏に仕えたものとされている。
 
室町中期には犬上郡(甲良町下之郷)を本拠とする多賀氏と坂田郡(東浅井郡中野)を本拠とする多賀氏が対抗分裂し、前者は左衛門尉豊後守を称し、後者は右衛門尉出雲守を称した。応永十年京極高詮の被官・多賀伊勢入道が侍所の所司代に任じられ、京極持清が侍所頭人になると多賀出雲入道が所司代を務めている。この時期、若宮氏と並んで京極氏屈指有力被官(家臣)であったことが知れる。
■ 宗仙寺に集められた多賀家墓石は高忠の系とは無縁であった!
宗仙寺墓所には、多賀常則(天正17年/1589年卒)を祖とし、江戸時代四国伊豫に発生した常直(元和4年/1618年卒)を初代とする多賀家の大小11基の五輪塔がある。すなわち、初代・常直、2代目・常長、3代目・常良、4代目・常之、5代目・常房、6代目・常但、7代目・高當、8代目・高厚、9代目・高智、10代目・高延、11代目・高秀などとその室の墓石塔が集められている。
▼ 確認された墓石
当寺に集められている墓石は、経年風化のため、墓石刻印は不明朗であるが、以下のものが確認された。列基する墓石は、すべて多賀常則に連結させた江戸時代四国伊豫発生の多賀氏の墓石であり、近江犬上郡の豊後守家系多賀家とは無縁であることがわかった。ましてや、近江犬上郡多賀庄下之郷城主・多賀豊後守家当主の京極高忠多賀豊後守ならびに高忠開創の宗仙寺とは無縁である
高忠多賀豊後守(1425〜86年)の活躍した室町時代後期〜戦国時代前期からは約165年あとの江戸時代になって、中世に断絶した多賀家系本流の子孫でもなく、ましてや高忠の血縁でもなく、家臣でもない四国・伊豫(愛媛県・今治市)に発生の多賀家がなぜ高忠多賀豊後守創設の宗仙寺に入ったのか疑問である。 

追善・常則・宗仙寺殿前豫州大守黄(喜)山洞悦大居士 常則側室
初代常直・寿勝院殿傑叟良英大居士(元和4、1618)
3代目常良・全性院殿空山宗圓居士
4代目常之・全徳院殿通玄義寂居士(安永4、1775)
5代目常房・陽興院殿真叟義覚居士(寛保3癸亥、1743)
6代目高但・陽徳院殿瑞甫義慶居士
7代目高當・一乗院殿玄味日法大居士(文政4、1821)
8代目高厚・眞翁院殿中源高厚大禅定門(安政5戊午、1858)
▼ 京極高忠と多賀家との関わり
元来、京極高忠多賀家との関わりには、2つの説があり、1つはのちに起こる応仁の乱以降、敵対・断絶関係となる坂田郡の多賀出雲守高直の娘(清直の妹)を娶り、わが家系における京極家7代目の父・高数が祖父の京極家6代目・高詮から譲られ、応永4年(1397年)に築城し家老たちと一緒に住んだという領地:多賀庄の下之郷を本拠にしたことから、地名に因んで「多賀」を名乗ったという説であり、他の説は京極家から家臣である犬上郡の豊後守家に入り、2人の息子を持つ多賀豊後守高長の養子の形で、多賀家の家督となったとする説である(この当時、多賀氏は、すでに犬上郡の豊後守家系と坂田郡の出雲守家系に分かれて張り合っていたらしい)。この時代、佐々木氏自らが他家の養子になって所領を継承し、本主を代官にするという形で所領を広げ、本主を養子にする、あるいは庶子を本主の養子にするという形で一族を拡げており、佐々木氏と古代豪族多賀氏の関係もおそらくこの形かもしれない。

しかし、筆者は以下のように解釈している。高忠の養父の形を取っている多賀豊後守高長の父・豊後守高信(兵庫助)は、守護大名である京極家7代目の高忠の父・京極高数の家臣(家老)として、室町幕府3代将軍足利義満の盛大な相国寺慶讃供養の先陣随兵を務める高数を補佐していること(「相国寺供養記」)や、嘉吉元年(1441年)6月24日、播磨守護・赤松満祐が室町幕府6代将軍・足利義教、主要諸大名、公家らを酒宴に招き、宴の最中に、将軍・義教暗殺した将軍暗殺事件(嘉吉の乱)で、管領である細川持之を始め畠山・山名・大内ら有力守護大名が逃げ出す中、将軍に供奉した京極高数はその場に残って孤軍奮闘し、瀕死の重傷を負い、後日死去したという経緯もあり、主君・高数の遺児高忠当時16歳)を不憫に思い(?)、忠義心から2人の息子を持つ身内の豊後守系多賀家嫡子・高長養子の形で手元に置き、近江犬上郡の下之郷城主として庇護したものと思われる。

ちなみに、こうした高数およびその嫡男・高忠に連結させた記述には、高数の代の土岐氏から養子に入った京極教久は別として、多賀氏と同じ近江国犬上郡を発祥とする豪族・藤堂氏にも藤堂良隆の長男・虎高が三井氏から養子として入るが、次男・良直を高忠の子とし、3男・良政の義父・多賀良氏を高忠の弟とするなど、(その良氏の娘と虎高との次男は津・藩祖の藤堂高虎であるが)、少々怪しい記述も見られる。
▼ 四国伊豫系多賀氏における人物・系図の信憑性
江戸時代の四国伊豫に発生の多賀氏については、以下の如く、極めて怪しい記述が多く、もはや混同のレベルではなく、仮冒(他人の名を語る偽称)の域である。

1.宗仙寺に集められている多賀氏墓石の中で、初代・多賀常直の祖として追善されている多賀常則(新左衛門尉・生年、父ともに不明)については、1)死没年月が、上述の犬上郡豊後守系由来とされる多賀貞能(*〜1587)と同じである、2)別名(通称)に新左衛門尉を使っているが、「新左衛門尉」は甲良町下之郷を拠点とした一派(豊後守系)が名乗る通称である、など怪しい記述が多く、上述の犬上郡豊後守系由来とされる近江国高島郡(現在の滋賀県高島市)の国人多賀貞能混同され、あるいは仮冒(他人の名を語る偽称)されており、架空の人物かとさえ疑われている。多賀貞能と多賀常則は全くの別人・別系統である。

2.四国伊豫系多賀氏作成の多賀家系図では、近江犬上郡豊後守系由来の多賀氏系図に直接連結させ、あたかも血縁であるかの如く子孫の系図を繋げている。すなわち、上述の如く、近江犬上郡豊後守系由来の多賀貞能は男子が無いため、信長、秀吉の側近大名である越前18万石の堀秀政の弟・出雲守秀家(秀種;兄留守中は近江佐和山9万石城代)を養子に迎えており、しかも養子・多賀秀家には秀武、秀誠の2人の息子がおり、秀誠のあとは、直定が継いでいるにもかかわらず、その豊後守系由来の多賀貞能の後に、全く血縁のない四国伊豫系の多賀常則を、あたかも嫡子であるかの如く直接結び付け、四国伊豫系・子孫の系図を作成している。ちなみに、多賀貞能の後継・多賀秀家は、転封、改易を繰り返した末に前田利常の家臣(6000石)となり、子孫の一部は加賀藩士(5000石知行)になったという説さえある。また苦し紛れか、上述1の如く、多賀貞能と多賀常則を同一人物として扱う記述すらある。仮冒(他人の名を語る偽称)の極みである。

3.上述の如く、犬上郡豊後守系由来とされる近江国高島郡(現在の滋賀県高島市)の国人・多賀貞能〜1587)は、多賀貞隆の長男。通称新左衛門。官途は信濃守。男子が無いため、織田信長・豊臣秀吉重用の側近大名・堀秀政の弟・秀家多賀秀種、1565〜1616)を養子とし、秀吉政権下では大和国宇陀郡において秋山城二万石の大名となるが、慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の合戦で石田三成方に味方したことで没落した武将であり、出自不明の多賀常則新左衛門尉・生年、父ともに不明 〜1587)は、某解説では、戦国時代の浅井氏の家臣とされ、織田氏、豊臣氏と主筋を変えて戦国の世を生き抜いた武士とされている。尾張国・美濃国の織田信長に仕え、近江南部の大津穴太で旧主筋にあたる浅井・朝倉連合軍と対峙、越前国の朝倉義景滅亡戦(一乗谷城の戦い)、伊賀攻め、武田征伐にそれぞれ参加。本能寺の変で信長が死去した後は羽柴秀吉に仕え、小牧・長久手の戦いにも参加。その後、秀吉の命令で実弟の羽柴秀長付の家臣となり、九州征伐において秀長軍の一員として従軍するが、病気のために陣中にて死去したとされているが、その信憑性は薄い。多賀貞能と多賀常則を同一人物として扱う記述すらある。

4.また上述の如く、多賀常則は、はじめ戦国時代の浅井氏の家臣であったと記述されているが、浅井氏の家臣団の中に多賀氏の名は見えないちなみに、戦国大名浅井氏の家臣団は、旧国人領主である上層家臣と、土豪である下層家臣に分かれていたとされ、上層家臣としては、磯野氏・上坂氏・赤尾氏・堀氏・今井氏・安養寺氏・三田村氏・雨森氏・海北氏・大野木氏が上げられている。彼らは京極氏家臣から、そのまま浅井氏家臣になった者が多いという。また、下層家臣に当たる地侍層は、村落領主であり土豪とも言われ、彼らは上層家臣に属する形で、いわゆる陪臣(ばいしん、家来の家来)として浅井氏に仕える形をとったと考えられている。下層家臣の例として、坂田郡南部の天野川流域の土豪たち、岩脇氏・井戸村氏・嶋氏が上げられており、彼らは上層家臣に当たる坂田郡箕浦(米原市箕浦)の今井氏に属する形で浅井氏に仕えたという。

5.また、宗仙寺にある四国伊豫(愛媛県)発生の多賀氏墓石の中で、3代目とされる多賀常良(生没不明)が、出雲松江(島根県)藩主京極忠高の家老多賀常良 (吉左衛門、宗圓)(-1696)と同姓同名である。すなわち、実子がなく丸亀に転封となった出雲松江藩主・京極忠高(1593-1637)は、甥の播磨竜野藩主・京極高知(1619-1662)を養子とし、讃岐丸亀初代藩主としたが、高知にも実子がないため、側室の娘・伊知子(-1660)と家老多賀常良 (吉左衛門、宗圓)(-1696)との子・京極 (多賀) 高房(-1677)を讃岐丸亀初代藩主・京極高知(1619-1662)の養子(のち高知側室に実子・讃岐丸亀2代目藩主高豊 (1655-1694) 誕生のため離縁、高豊より3000石分知)としたが、宗仙寺にある四国伊豫系の多賀常良(生没不明)とこの京極忠高家臣の多賀常良 (吉左衛門、宗圓)(-1696)は同姓同名である。

など極めて怪しい記述が多く、もはや混同のレベルではなく、仮冒(他人の名を語る偽称)の域である。ましてや、近江犬上郡多賀庄下之郷城主・多賀豊後守家当主の京極高忠多賀豊後守ならびに高忠開創の宗仙寺とは無関係である。
▼ 多賀家の五輪塔は宗仙寺開創の京極高忠とは無縁!
以上のことから、宗仙寺に集められた多賀家の五輪塔は、江戸時代に四国・伊豫に発生した多賀家のものであり、中世(平安末期から鎌倉・室町・戦国・安土桃山まで)を生きた多賀氏本流の、とくに某説で高忠関連の近江犬上郡豊後守系由来とされる子孫とも異なり、ましてや、宗仙寺開創の京極高忠多賀豊後守の系とは全く無縁であることがわかった。
<結論>
墓所には、多賀常直(元和4年/1618年卒)を初代とする四国・伊豫の多賀家の11基の五輪塔がある。京極高忠多賀豊後守が開創の宗仙寺(京都)に、京極高忠の系とは全く関係の無い五輪塔が所狭しと鎮座している! 仮冒(成りすまし)であってほしくないものである。
江戸時代に四国伊豫で発祥の多賀家の五輪塔が宗仙寺墓所にあるのは何故か?
中世に断絶した近江の多賀家系本流の子孫とも異なり、ましてや宗仙寺創建の京極高忠の系とは全く無縁である!

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